■節子への挽歌1944:聖地を歩くこと
節子
闘病中の節子に洋菓子を送ってきてくれていた鈴木さんが湯島に来ました。
鈴木さんは、インドのアシュラムで修業したこともある、ちょっと現世離れした人です。
サンチャゴ巡礼もしてきました。
サンチャゴといえば、私たちは歩いたことはありませんが、ちょっと節子にも思い出のある巡礼路です。
鈴木さんはいまはある雑誌の副編集長です。
最初は、あの仙人のような鈴木さんがと思っていましたが、もう10年以上続いています。
その間、休暇をとって3年ほどでサンチャゴを踏破したのです。
その鈴木さんに、仕事をやめたらどうするのかと質問しました。
いささか失礼な質問ですが、私には興味のあることなのです。
鈴木さんの答は「歩きたい」でした。
鈴木さんは世界各国を歩いていますが、2つの歩きが心に残っているそうです。
サンチャゴ巡礼路とネパールでのトレッキングです。
いずれの場合も、聖なるものとの交流を感じたようです。
聖なるものとっても、その道や自然環境だけではないようです。
世界各国から集まってくる多様な人が持ち寄ってくる「聖なるもの」に、鈴木さんは魅了されたようです。
聖地は、さまざまな魂が時空を超えて集まるからこそ、聖地なのです。
鈴木さんの感覚がよくわかります。
歩いてどうするの、とあえて愚問をぶつけました。
答は聞くまでもありません。
何かのために歩くのではありません。
歩くことに意味がある。歩くだけでいいのです。
私が思っていた通りの答が鈴木さんから帰ってきました。
私はサンチャゴ巡礼路も四国の巡礼路も歩きたいとは思っていません。
節子が病気になった時には、節子が元気になったら一緒に歩こうと思っていましたが、今はその気はまったくありません。
今の私には、いまここが「聖地」なのです。
正確に言えば、いまここを「聖地」と思えるということです。
あるいは、これまで歩いてきたところが、「聖地」に感じられるのです。
もちろん、いわゆる聖地に立つと、心が大きないのちにつながる感じはします。
時を経た仏像の前で手を合わせると、聖地の入り口を感じます。
しかし、節子のおかげで、いまはどこでも聖地とのつながりを感じられるようになってきました。
大仰に言えば、今の私は、巡礼路を歩いているような気が、時にします。
鈴木さんと話していて、改めてそのことを実感しました。
でも一度くらいは、節子と聖なる巡礼路を歩きたかったと思います。
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