■節子への挽歌1927:生きたという事実
節子
今日はとてもあったかく、良い天気です。
午前中は自宅で一人で過ごしています。
昔はこうした日は、節子は必ず庭仕事でした。
いつも隣にいた人がいないと、なんだかそこに穴が開いたようで、気分が落ち着きません。
人間は、そうした穴に何かを当て込んで、穴を感じなくさせるものですが、時間がアッつと逆にその穴が感じられるようになるのです。
これは普通の体験とは違うかもしれません。
「物理的にいなくなること=死」をどう受け止めていくかによって、死者とのかかわりが生まれ、死者に対するリアリティや死者との経験、儀式や作法といったことが生まれてくる、と何かの本に書かれていたのを思い出します。
物理的な不在と心理的な存在は、なぜか両立します。
物理的にいなくなっても、時にその存在を以前よりも強く感ずることもあるのです。
こういう、晴れた小春日和には、節子の存在を強く感じます。
それに今日は、娘も不在ですから、ますます強く感ずるのかもしれません。
死で、すべてが終わるわけではありません。
物質としての身体はなくなっても、その人の生が、なくなってしまうわけではありません。
前に引用したジャンケレヴィツチの「死は生きている存在のすべてを破壊するが、生きたという事実を無と化することはできない」という指摘は、とても納得できます。
今朝、何気なく書棚を見たら、桑子敏雄さんの「気相の哲学」が目に止まりました。
10年以上前に読み出して、見事に挫折している本です。
目に止まったのも何かの縁と、読み出してみました。
20分で、また挫折です。
朱子学を唱えた朱熹たちの思想を踏まえての新しい哲学の書なのですが、やはり難解です。
でも気になるので、少し時間をかけて再挑戦することにしました。
その最初のところにこんな文章があったからです。
実は、ここで挫折して、読むのをやめたのですが。
朱熹は死後の存在を否定していますが、死が魂・魄という気の分離であるとするなら、死は何らかのエネルギー状態にあった気の転移であると理解することができるでしょう。とすれば、魂・魄の分離がエネルギーそのものの喪失であるとは考えにくいでしょう。親しかった死者を悼んで涙を流すなど、死んだ者が時折わたしたちの心の作用を引き起こすとすれば、そこには何らかの死者のエネルギー状態がその時点で存在すると考えられるのではないでしょうか。ここまでの文章が難解で、まだ咀嚼できずにいます。
しかし、なんとなく「大きないのち」を読み解く、ひとつのヒントがありそうです。
少しがんばって読んでみようと思います。
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