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2012/12/10

■節子への挽歌1920:運命は外から働くばかりでなく内からも働く

西田幾多郎の話をもう一度。
昨日の挽歌で引用した原典の「『国文学史講話』の序」の中には、こんな文章も出てきます。
ちょっと長い引用ですが、とても含蓄のあるものです。

いかなる人も我子の死という如きことに対しては、種々の迷を起さぬものはなかろう。あれをしたらばよかった、これをしたらよかったなど、思うて返らぬ事ながら徒らなる後悔の念に心を悩ますのである。
しかし何事も運命と諦めるより外はない。
運命は外から働くばかりでなく内からも働く。我々の過失の背後には、不可思議のカが支配しているようである。後悔の念の起るのは自己のカを信じ過ぎるからである。我々はかかる場合において、深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大のカに帰依する時、後悔の念は転じて懺悔の念となり、心は重荷を卸した如く、自ら救い、また死者に詫びることができる。
まさに私には自分のことを言われているような気がします。
もっとも、後悔から懺悔に代わっても、心の重荷は卸した気分にはなりませんが。
「運命は外から働くばかりでなく内からも働く」という文章で、少しだけ気が楽になるのですが、すぐその後で、「後悔の念の起るのは自己のカを信じ過ぎるからである」と言われてしまうと、一転、奈落の底に落とされたような気がしてしまいます。

最初の文章は、私にも実感できますし、それにすがりたい気持ちもあります。
節子が私より先に逝ったのは理由があるのだと思うと、少し重荷が軽くなります。
その理由も、いろいろと思いつくのです。
しかし、「後悔の念の起るのは自己のカを信じ過ぎるからである」と言われてしまうと、まさにその通りなので、なんだか自分が責められているようで救いにはなりません。
西田幾多郎にとっては、後悔と懺悔とは大きく違うのでしょうが、いまの私には違いがわかりません。
むしろ自己の力を過信したが故に、節子を失ってしまったとさえ考えてしまいます。
それでまた「いじいじ」してしまうわけです。
困ったものです。

それはそれとして、問題は「運命は外から働くばかりでなく内からも働く」ということです。
自らの判断もまた、大きな定めのなかで行われているというような意味でしょうが、過信もまた定めだったのです。
それに「過信」しなければたぶん乗り切れなかったでしょう。
それは、私の定めであり、節子の定めでもあったのです。
そしてさらにいえば、いまこうして「いじいじ」としていることもまた、定めなのでしょう。

こう考えていくと大きな気づきに到達します。
すべての定めは、自らの心の中の煩悩から生まれているのではないかということです。
そして、色即是空にたどりつくわけです。
西田幾多郎は、「何事も運命と諦めるより外はない」と書いています。
ここで「諦める」とは、いうまでもなく「明らかにする」ことでしょうが、だからといって煩悩が消えるわけではありません。
ただいえることは、いじいじすることにも意味があるということです。
定めには素直に従わなければいけません。

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