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2012/12/20

■節子への挽歌1936:あったかい関係

節子
入院していたユカが退院しました。
私につづいてユカ、そしてもしかしたら、その次はチビ太かもしれません。
最近どうも元気がありません。
お医者さんからは2年前に、引導を渡されてはいるのですが。
心配の種は尽きません。

昨日の忘年会でもいろいろと心配事が交わされました。
まあ、この歳になると、心配事がないのがおかしいわけですが、それぞれに言葉にはなかなかできない心配事があるようです。
もっとも、心配事があることは決して悪いばかりではありません。
それが一種の緊張感と表情を人生に与えてくれるからです。
それに心配事は、言葉にした途端に、自分のものとは違うものになりかねません。
そのせいもあって、なんとなく分かり合いながら、なんとなく気遣いながら、深くはお互いに突っ込まない、あいまいなやりとりが続きます。
もっとも、表面上の言葉のやり取りは、子ども時代さながらに激しいのですが、そこにはあったかい空気が流れています。
幼馴染の場とは、とても不思議な場です。
言葉にしなくても相通ずるところがあります。
それは夫婦の間の空気と、少し似ているかもしれません。

ここにくるとなんだか落ち着いて安心する、と別の忘年会を止めてまで、やってきた一人が言いました。
すかさず、じゃ、いつもは安心せずに緊張しているのか、と憎まれ口が出てきます。
もう一人が、別に普段は付き合っていないのに、年に1度会わないと「胸の痞え」がとれないと言いました。
あんまり付き合いたくない関係だもんな、とこれも憎まれ口。
「胸の痞え」ってなんなのか、よくわかりませんが、彼は毎年、そういうのです。
それに、彼は盛んに「おれたちは付き合いなどしていないし」と口に出します。
たしかにみんな「付き合っている」という感覚はありません。

普段はそこにいなくても、どこかにいるから安心だというわけです。
さてそこで、ついつい節子もそうだなと思うわけです。
節子は今は普段は私の隣にはいませんが、だからと言って、いなくなったという感覚はありません。
普段会えなくてもいいという、幼馴染の感覚で言えば、同じことかもしれません。

人は、一度、誰かを愛すると、そして人生を深くシェアすると、それが永久に続くのかもしれません。
隣にいなくてもさびしくないとは言いませんが、隣にいるかどうかは、もしかしたら大事なことではないのかもしれません。
もちろん隣にいまもいて欲しいですが。

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