■節子への挽歌1939:彼岸と此岸を往来できる人
節子
年末になるといろんな人から電話が来ます。
節子の知っている人が少なくありませんが、一番元気なのは大宰府の加野さんです。
もう80歳を超えているはずですが、実に元気です。
手作りの久留米絣を残すのが自分の使命だから、まだ死ぬわけにはいかないといっています。
ともかくエネルギッシュです。
この数年、お会いできずにいますが、以前書いたように、大日寺の庄崎さんを介して、もしかしたら節子とは毎月話をしているかもしれません。
今日のNHKの大河ドラマ「平清盛」には、死ぬ前後に清盛が西行に乗り移り、遺された者たちに働きかけをする場面がたくさん出てきました。
彼岸と此岸の往来は、最近でこそ難しくなりましたが、清盛の時代にはまだそう難しいことではなかったのかもしれません。
いまもまだ、庄崎さんのように、彼岸と此岸を往来できる人がいても不思議ではありません。そんな気がします。
もしかしたら、加野さんもそういう人かもしれません。
加野さんから江戸時代の石田梅岩の夢を見た話を聞いたことがあります。
その夢で石田梅岩のことを知り、本を読み、いまは京都で暮らしているその子孫の方にお会いに言ったそうです。
加野さんは、そういう不思議な方です。
節子も知っている加野さんの娘さんも不思議な人でした。
私が大宰府の加野さんのお宅をはじめて訪ねたのは、その娘さんの不思議な夢の話が縁でした。
その時は、節子はすでに発病していた時で、私一人で行きました。
いま思えば、無理をしてでも、節子と一緒に行けばよかったと思います。
もしかしたら、流れが変わったかもしれません。
しかし、その時には、すでに加野さんの娘さんは彼岸に旅立ってしまっていました。
加野さんの娘さんが亡くなる少し前から、福岡に戻った加野さんとのお付き合いが途絶えてしまっていました。
どういう契機でか思い出せませんが、なぜか加野さんのところを訪問しようと思ったわけです。
その前後のことが錯綜していて、なぜか思い出せません。
私のホームページには毎週、私の活動記録が掲載されています。
それを読んでみたのですが、なぜか私の記憶とは時間軸がかなり違っているのです。
しかし、いずれにろ、大宰府の駅前で花を買って、加野さんの家にお伺いしたことはたしかです。
なにしろ、私の人生において、花輪を買ったのは、この時が最初であり最後です。
手配は娘がしておいてくれたのですが。
そして、それ以来、またお付き合いが始まりました。
加野さんは、節子の病気のことを知り、その後、いろいろと心配りをしてくれましたが、もう少し早く私が状況を正確に伝えていれば、奇跡が起こったかもしれません。
しかし、その時には、そんなことは頭に一切浮かばなかったのです。
そして、まさか、加野さんが彼岸と此岸を往来できる人だとは思ってもいなかったのです。
それに気づかなかったのもまた、定めです。
来年は、福岡に行こうと思います。
加野さんの活動の主舞台が彼岸に移ってしまっては、困りますので。
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