■節子への挽歌1918:「花びらは散っても 花は散らない」
節子
タイトルの「花びらは散っても 花は散らない」は、今日、知った言葉です。
東京新聞に載っていた竹内整一さんのエッセイで知りました。
浄土真宗の僧侶で、仏教思想家の金子大栄さんの言葉だそうです。
この言葉だけではちょっとわかりにくいもですが、それに続く「形は滅びても人は死なぬ」という言葉を読むと、その意味がよくわかります。
竹内さんは、『この言葉は、「あらゆるものは実体なく移りゆくが、そのことを悟れば、それらはそのままに実在である」という、仏教の「色即是空 空即是色」という考え方にもつながる』と書いています。
いまの私には、とても納得できる言葉です。
さらに、竹内さんはこう続けています。
「散らない花」とは、生者の側が死者に働きかけるだけではなく、死者の側が生者に働きかけてくる何らかの働きによって花開くものとして考えられている。「死者の側が生者に働きかけてくる何らかの働き」。
なにやらオカルトのように感じる人もいるかもしれませんが、愛する人を見送った人は、多かれ少なかれ、そうしたことを体験しているのではないかと思います。
節子を忘れない人がいる限り、節子は生きているという実感に関しては、これまでも何回か書いてきました。
そしてだからこそ、私はこの挽歌を書き続けているわけですが、生者からではなく死者からもまた生者に働きかけてくるというのは、これまであまり意識していませんでしたが、たしかにその通りです。
節子はなにかと私たち家族に働きかけてくるのです。
とりわけ、私の行動にはかなり関わってきます。
そしてそのたびに、私は節子を意識し、節子の存在を感ずるのです。
竹内さんは、同じエッセイで、「死は生きている存在のすべてを破壊するが、生きたという事実を無と化することはできない」という、ジャンケレヴィツチの言葉も紹介していますが、生きていたという事実だけではなく、いまなお生きていて、生者の人生に影響を与えてくるのです。
まさに「花びらは散っても 花は散らない」。いまなお節子は私とともに生きている。
この感覚は、思念的でもあり現実的でもあるのです。
金子さんの文章をもう少し引用します。
花びらは散っても 花は散らない
形は滅びても人は死なぬ
永遠は現在の深みにありて未来にかがやき
常住は生死の彼岸にありて生死を照らす光となる
その永遠の光を感ずるものはただ念仏である
毎朝の短い念仏は、節子が彼岸にいると同時に、此岸でも生きている証を確認する時間でもあります。
花びらが散らない花はありません。
しかし、花びらが散ってもなお、花であると気づけば、花は散ることはないのです。
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