■節子への挽歌1937:べったり夫婦
節子
東京新聞のコラムに、白洲夫妻のことに言及したコラムがありました。
白洲夫妻はべったりした関係ではなく、それぞれが自由に生きていたというようなことが書かれていました。
たしかに、白洲正子さんも白洲次郎さんも、それぞれの世界をしっかりと生きた人でした。
それを読んで、私たち夫婦は「べったりした関係」だっただろうかと考えました。
この挽歌を読んでいる人には、たぶん「べったり夫婦」とうつっているかもしれません。
私自身、そう思っている風があります。
しかし果たしてそうだったかどうか。
私たちは、お互いの生き方を尊重し、基本的には干渉しあうことはありませんでした。
もちろん相手の行動に意見を言うことは多かったのですが、「干渉」とはお互いに意識していなかったと思います。
節子の行動に関して、私が反対したこともないわけではありません。
それは、危険性を感じた場合ですが、だからといって、節子が予定を変えたことはありませんでした。
節子は友人と旅行に行ったり、好きな習いごとをしたりしていました。
むしろ私のほうが、一人で、あるいは友人と旅行に行くことは少なかったのですが、それは私の個人的好みの問題です。
私は、そもそも旅行が好きではないのです。
しかし、その点では外部から「女房べったり」とも見えたかもしれません。
節子でさえ、時にそう言っていました。
あなたももう少し他の人と旅行にでも行ったら、と。
女性との付き合いに関しても、節子は、私だけではなく、たまには誰かと付き合ったらと言うほどでした。
もっともそれは、私が決してそんなことをしないだろうと思っていたからかもしれません、
それでも節子が発病してからは、間違いなく「べったり夫婦」になりました。
一緒に過ごした時間が多かったというよりも、意識において、完全に「べったり」だったのは間違いありません。
その4年半は、2人だけの世界に生きているといってもよかったかもしれません。
節子が幼馴染みや友人たちと会う時にも、私は同行しました。
そのおかげで、節子のことを私はさらによく知ることができましたし、もし節子が元気でいつづけられていたら、家族付き合いも続いたかもしれません。
病気になる前の私たちは、実はそれほど「べったり夫婦」ではなかったように思います。
少なくとも、結婚した当時の私の夫婦観は、それぞれの世界をしっかり持った関係でした。
節子はむしろそれに戸惑っていました。
しかし、いつの間にか、その夫婦観は変わってしまいました。
次第に私は、節子にべったりと依存するスタイルになってしまったのです。
逆に、節子は自立する方向に変わりました。
なぜそうなってしまったのか。
女性にはやはり勝てません。
節子にすっかり飼育されてしまったのでしょうか。
いやはや困ったものです。
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