■節子への挽歌1954:天地に包まれたあたたかさ
節子
10年以上前に途中で挫折していた、桑子敏雄さんの「気相の哲学」を読み直しています。
小説ならば1日に500頁くらいは一気に読めるのですが、この本はなんと50頁読むのに3日もかかっています。
それでもよく理解できないのです。
しかし、とても共感できる文章に、時々、出会います。
たとえば、こんな文章です。
すべての生命は、さまざまなエネルギー状態にある気によって構成されており、これは人間でも他の生命でも同一であるということができるでしょう。どのような生命も孤立し閉じた系ではなく、環境と気の交換を、つまりエネルギーと物質の交換を行ないながらその恒常性を維持しているのです。ここで「環境」という言葉は、朱子の言葉では「天地四時」という表現になっています。
略して、ただ「天地」と表現されることもありますが、私はこの言葉がずっと気になっていて、それで今回も読み直すことにしたのです。
「天地」は、一言で言えば、時空的な自然環境をも含めた世界です。
「自然環境をも含めた」と書きましたが、物理的な意味での自然環境にとどまらず、むしろその中心には、価値や意味が込められた機能的時空間なのです。
環境そのものが「生きている」といってもいいでしょうか。
さらに言えば、人間、つまり私も含められているのが、「天地」です。
オルテガは、「私は、私と私の環境である」と言いましたが、それにつながっています。
人は生きているのではなく、生かされているのだ、と仏教ではよく言われます。
この表現は、納得できるのですが、どこかに違和感があります。
本来は、「共に生きている」という「共生き」というのが、正しいのかもしれません。
「生かされている」と言ってしまうと、「生かしている誰か」と「生かされている自分」とが、切り離されてしまうからです。
これは、大きな生命という考え方には反する。西欧近代の発想です。
一昨日、この挽歌にコメントがありました。
以前書いた挽歌の中に「共生き」という言葉が出ていたのですが、それに関する照会でした。
改めて「共生き」についても、少し考え直してみようと思い出しています。
今年も、「天地四時」に包まれた、あたたかな生き方に、素直に随おうと思います。
よやく年賀状の返事を書き終えました。
節子がうるさく言っていたように、宛先も手書きにしましたが、寒くて手がこごえていて、うまく書けない上に、漢字を忘れていて、書き違えたものもあります。
書き違えもまた意味があると、そのまま出してしまいましたが。
5日間、時間を超えていたのですが、その後は時間に追われています。
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