■節子への挽歌1968:みんなが支えてくれます
節子
いささか袋小路です。
問題を抱え込みすぎることに気づきました。
節子がいた頃は、節子が最終的な相談相手でした。
正確に言えば、お互いに相談し合い、問題を完全にシェアできる存在でした。
ところが、今はそれがなくなっています。
最近は、そのせいか、娘たちにさえ、それとなく「愚痴」を発していますが、相談相手にはなりえません。
同じ次元で生活を共にしていないと、問題を本当にシェアすることはできません。
最近の疲れは、もしかしたらはけ口がないために、気が澱んでしまっているのかもしれません。
そこで、今朝、思いつく友人に相談に乗ってくれないかというメールをしました。
最近しばらく会っていませんが、いま私が抱えている問題の体験者でもあります。
彼も忙しいだろうなと思いながらのメールでした。
ところがメールを送ってすぐに電話がかかってきました。
いま北海道なのだそうです。
何か役立つことがあれば、という電話でした。
北海道から戻ったらすぐに会うことにしました。
もっと早く電話すればよかったと思いました。
いま、自殺のない社会づくりネットワークの活動に取り組んでいますが、そこで相談に来た人に、周りの人にもっと助けを求めるといいですよ、などとアドバイスすることがあります。
事実、そんなに自分だけで抱え込まなければいいのに、と思うことはよくあります。
にもかかわらず、まさに、私自身がそうした落とし穴に落ち込んでいたわけです。
自分のことは本当に見えなくなるものです。
少し楽になりました。
問題が解決したわけではありませんし、むしろ問題はさらに悪化するかもしれません。
しかし、友人がこんなに親身で受け止めてくれるということがとてもうれしくなりました。
節子はもういませんが、相談に乗ってくれる人はたくさんいることに気づきました。
口の悪い友人は、私のことを、最近は躁うつ病だからと揶揄しますが、問題を一人で考えているのはけっこう辛いものです。
問題の渦中に閉じ込められると精神的にもおかしくなります。
でも北海道からすぐに電話して来てくれた若い友人のおかげで、その誤りに気づきました。
ちなみに、今日はもう一人、さほど付き合いが深くない若者も、わざわざ湯島にアドバイスに来てくれました。
節子
あなたがいなくても、みんなが支えてくれるようです。
昨日書いたアルドの言葉ではないのですが、「これ以上、何が必要だ」です。
節子がいないせいにしてはいけません。
でもまあ、節子がいたら、もっと元気になるでしょうが。
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