■見てしまった者の責任
私が住んでいる千葉県我孫子市では、雲のために初日の出は見られませんでしたが、気持ちの良い日差しの元日でした。
今日の日の出は、とてもきれいでした。
きれいな日の出を見て、ようやく時評編のブログをはじめる気分になりました。
昨年末にテレビで、水俣病患者とともに生きていた医師の原田さんの番組を見ました。
なぜ一生を水俣病とともにしたのかと問われた原田さんは、「見てしまったものの責任」だと答えました。
その言葉が、年を越えても頭から離れません。
現実を見ようとしない人があまりにも多いことを、私はずっと不思議に思っていました。
昨年、私の認識の間違いに気づきました。
見ようとしないのではなく、見えないのだと気づいたのです。
10年ほど前に、CWSコモンズというホームページを開き、今も毎週更新してきています。
最近は自分の記録に留まりがちになってしまっていますが、当初は、社会へのメッセージを意識していました。
そこで時々書いていたのが、「人は見たいものしか見えない」ということです。
見えないのは、「見たいもの」の呪縛のためです。
「常識のため」と言ってもいいでしょう。
子供たちの見ている世界と大人の見ている世界は違うというのが、子どもの頃からの私の思いでした。
大人たちは、なぜか視野を狭窄にしています。
学校で学ぶということは、視野を狭くし、世界をわかりやすくすると共に、他者との付き合いを容易にすることだと私は考えました。
だから、勉強は好きでしたが、学校は嫌いでした。
そのため私はたぶん「まともな大人」にはなりそこないました。
しかし、いつの間にか、私もまた「見たいものしか見ない」ようになってきてしまっていたのです。
幸いなことに、その「見たいこと」が常識とは少しだけ違っているような気がしますが。
見たいものだけを見続けていると、見たくないものは見えなくなります。
見ようと思っても、見えないのです。
そして見えない幸せの世界で平安に生きられるようになります。
しかし、不幸なことに、時に、見たくないものが見えてしまうことがある。
その時、どうするか。
原田さんは、「見てしまった者」には責任があるといいます。
「見えなくなっているものを見る努力」と「見てしまった者の責任」。
これが私の今年のテーマです。
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