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2013/01/02

■ショッピングモールでは売っていない福袋を買うことにしました

外出の帰りに、近くのショッピングモールに立ち寄りました。
靴がかなり傷んでいるので、買おうと思ったのです。

モールはものすごくにぎわっていました。
日本の景気のどこが悪いのか、といつも思っている疑問を改めて感じました。
お店をいくつか歩きながら、多くのお店の店先に「福袋」が並んでいるのに気づきました。
なかには「福袋完売しました」と張り出されているところもありました。
中身が見えるものもありますが、見えないもののほうが多いようです。
その代わりに、5万円相当のものが1万円、とか、金額比較で表示されているものも多かったです。
売り手が勝手に決めた「希望価格」を「客観的な価値価格」と感じさせるこうした表示は、私には「詐欺行為」と思えてしまいますが、まあ判断基準を失っている人たちにはわかりやすいのでしょう。
5万円相当品を1万円で買えることに顧客満足があるのでしょう。

たくさんの福袋を前にして思うのは、「何を買っていいかわからない人」や「買うことが目的になっている人」の存在です。
生活者から消費者へと変質させられている段階を超えて、いまや多くの人は「顧客(購買者)」に飼育されてしまっているのです。
私が嫌いな「顧客の創造」「顧客満足」です。
そこには生活はありません。

政府への期待として、ほとんどの人が「成長戦略」を期待しています。
「成長」とはなんでしょうか。
買いたいものもなく、しかし買わなければ経済がまわらないので、中身もわからない福袋を買いあさる人たちに、さらに何かを買わせようとするのが成長戦略なのでしょうか。
そうではないでしょう。

そうした福袋を朝早くから並んで買うような、飼育された購買者がいる一方で、生活に必要なものも買えずに困窮している人も増えています。
その人たちへの所得配分を少し変えるだけで、実は市場(経済)は大きく「成長」します。
いま議論されている「成長戦略」には、そうした視点がまったくありません。

つまり、現在議論されている成長は、産業の成長でありお金持ちの成長です。
しかし、それとは別に、意識の成長、生活の成長があります。
これから必要なのは、どちらの成長戦略でしょうか。

どうせ買うなら、ゴミになるような過剰商品の入った福袋ではなく、それを買うと生活に困っている人へのプレゼントになるような、そんな福袋を買いたいものです。
福袋を買うお金があったら、そうしたところに寄付すれば、きっとすばらしい「福袋」が手に入るでしょう。
福袋会場に殺到して怪我をしたりすることもないでしょう。

私も、今年はそうした福袋を買おうと思います。
そのため、靴はもうしばらくお預けにしました。
靴を買う程度のお金なので、ほんのわずかばかりなのですが、それでもきっと大きな福がもらえるでしょう。

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