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2013/01/03

■節子への挽歌1950:死の中にも生がある

節子
昨日、挽歌を書きながら思い出した文章があります。
吉田兼好の「徒然草」の第155段です。

春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来たるにはあらず。
春はやがて夏の気を催し、夏よりすでに秋は通ひ、秋はすなはち寒くなり、十月(かみなづき)は小春の天気、草も青くなり、梅もつぼみぬ。木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむにはあらず。下より兆しつはるに耐へずして落つるなり。
迎ふる気、下にまうけたるゆゑに、待ち取るついではなはだ速し。
生・老・病・死の移り来たること、またこれに過ぎたり。
四季はなほ定まれるついであり。
死期(しご)はついでを待たず。
死は前よりしも来たらず、かねて後ろに迫れり。
人皆死あることを知りて、待つこと、しかも急ならざるに、おぼえずして来たる。
沖の干潟はるかなれども、磯より潮の満つるがごとし。
(現代語訳)
四季の移り変わりにおいても、春が終わって後、夏になり、夏が終わってから秋が来るのではない。春はやがて夏の気配を促し、夏にはすでに秋が入り交じり、秋はすぐに寒くなり、十月は小春日和で、草も青くなり梅もつぼみをつける。木の葉が落ちるのも、まず葉が落ちて芽ぐむのではない。下から芽が突き上げるのに耐え切れなくて落ちるのだ。次の変化を迎える気が下に準備しているために、交替する順序がとても速いのだ。生・老・病・死が次々にやってくるのも、この四季の移り変わり以上に速い。四季には決まった順序がある。しかし、人の死ぬ時期は順序を待たない。死は必ずしも前からやってくるとは限らず、あらかじめ背後に迫っている。人は皆、死があることを知りながら、それほど急であるとは思っていない、しかし、死は思いがけずにやってくる。ちょうど、沖の干潟ははるかに遠いのに、急に磯から潮が満ちてくるようなものだ。
死もまた、時間を超えています。
しかし、今日、書きたいのはそのことではありません。
実は時間は重なっているということです。
徒然草のこの文章を竹内整一さんはこう読み解いてくれます。

春が終わって夏が来るのではない。夏が終わって秋が来るのではない。夏の中には、すでに秋の気というものがあって、それがだんだんと広がって、いつの間にか秋になる。
兼好は、このように季節の移りゆきを観察した後、人間の生き死に、生老病死も同じだと言っています。

つまり、「生が終わって死が始まるのではなく、生の中にすでに死が始まっている」というわけです。
これを「死の中にも生がある」と読むこともできるでしょう。
愛と生と死は、どうも同じものの一面なのかもしれません。
愛がなければ、生も死も単なる物理現象にとどまるかもしれません。
今年も、挽歌を書き続けようと思います。

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