■節子への挽歌1959:「悲しみ」と「怒り」
節子
最近少し怒りっぽくなっています。
といっても誰かを怒るとかそういうことではなくて、社会や時代への怒りといったほうがいいでしょう。
厭世観が強まり、気力が出てこないのは、そうした「怒り」のせいのような気がします。
わけもなく、時々、「怒り」が湧いてくるのです。
「からだとこころ」のレッスンで有名な演出家の竹内敏晴さんのエッセイに、こんな文章があります(少し前後の文脈が伝わるように変えてしまっています)。
その人にとってなくてはならぬ存在が突然失われてしまったとする。
そんなことはあり得るはずがない。
その現実全体を取りすてたい、ないものにしたい。
「悲しい」ということは、「消えてなくなれ」という身動きではあるまいか。
だが消えぬ。
それに気づいた一層の苦しみがさらに激しい身動きを生む。
だから「悲しみ」は「怒り」ときわめて身振りも意識も似ているのだろう。
いや、もともと一つのものであるのかも知れぬ。
それがくり返されるうちに、現実は動かない、と少しずつ<からだ>が受け入れていく。
そのプロセスが「悲しみ」と「怒り」の分岐点なのではあるまいか。
だから、受身になり現実を否定する斗いを少しずつ捨て始める時に、もっとも激しく「悲しみ」は意識されて来る。
私の場合、今なお、現実を受け入れられない状況が続いています。
むしろ、悲しみよりも怒りのほうが強まってきているような気がします。
もう6年目なのに、自分ではかなり柔軟な発想ができる自負もあるのですが、そして、怒りよりも悲しみの世界に移りたいのですが、どうしてもまだ、現実を拒否している自分から抜け出られずにいます。
今日の雪景色の中にも、ついつい節子を見てしまうのです。
共通体験した景色の中にいると、時間が戻ってしまいそうです。
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