■節子への挽歌1956:生意の蔵
節子
以前、読み出して途中で挫折していた「気相の哲学」を昨日、読み終えました。
難解でしたが、ノートをとりながらゆっくり読みましたので、少しは理解できたと思います。
朱子学を踏まえた、西洋近代の発想とは違う哲学で、共感できることが多かったです。
その本で、「生意の蔵」という言葉を知りました。
朱子学では、四季の変化による生命の四相という秩序を重視します。
つまり時間とは、いのちが発生し、成長開花し、結実し、保存するという生命の四相による秩序なのです。
その時間秩序に随って生きていくことが大切だというのです。
なぜなら、私たちの心身は、空気や水というものを通して環境と循環的につながっており、生命の四相は環境の循環秩序に呼応しながら、それ自体も時間的に循環しているからです
そうした四相の時間的秩序において、春は「生意の生」、夏は「生意の長」、秋は「生意の成」、冬は「生意の蔵」ともいわれているそうです。
いのちは、春に生まれ、夏に成長し、秋に成熟する。
そして、冬にはその成熟したいのちを、次のいのちにつなげていくために、しっかりと蔵するというわけです。
植物を考えてみれば、わかりやすいですが、動物においても、そして人間においても、納得できる話です。
私たちは、無機質な時間の世界を生きているのではなく、それぞれに意味のある秩序化された時間の世界を生きているのです。
そうした時に随って生きることが、大切なのです。
冬は「生意の蔵」。
自然の流れにできるだけ身を任せて生きるようにしている私にとっては、なにやら安堵できる言葉です。
冬は身をこごめて、思いや活動を熟成させる時期だと考えると、最近の怠惰さも、なにやら意味あるもののように感じます。
怠惰になるのも、意味があるのです。
春になったら、溜め込んだいのちは、おのずと勢いを得て、育ちだすだろうと思えばいいのです。
これは1年の四季だけの話ではありません。
人の一生にもまた、当然、同じことが言えるでしょう。
人生にはいつか冬が来る。
大きな意味では、一生そのものが春夏秋冬に分けられるのでしょうが、人の一生には、春夏秋冬の循環が繰り返しやってくるとも考えられます。
いまは、いろんな意味で、私は冬なのだと考えると心が安堵します。
さてもう少し冬篭りを続けましょう。
無理をして歩き出すことはありません。
ゆっくりとゆっくりと、冬篭りに浸りながら、そのまま春が来なくても、それもまた天地によって定められたことなのでしょう。
そう考えるととても生きやすくなります。
朱子学などいうのは、私には全く縁のない知恵だと思っていましたが、陰陽五行説も含めて、少し意識が変わりました。
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