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2013/01/02

■節子への挽歌1949:愛が死を超える

年末起こったあることで、映画「マトリックス」を急に観たくなりました。
私が記憶している世界は、果たして現実なのだろうかと改めて思ったからです。
年末年始の用事の合間をみて、3部作を見ました。
前回観た時にはまったくそういう印象はなかったのですが、これは愛の物語でした。
最後に残るのは、「生命とは愛」というメッセージです。

ネオとトリニティは、この映画の3人の主役のうちの2人です。
2人は愛し合っていますが、前回見た時には、私にはあまり関心のない要素でした。
しかし、この物語の基調は、愛だったのです。
愛が奇跡を起こし、愛が論理を破るというわけです。
もっと具体的に言えば、愛が死を超えるということです。
映画の中では、愛が死者を蘇らせます。
トリニティがネオを、ネオがトリニティを、です。
あまりにも陳腐なシーンなので、これまでは印象にも残らなかったのです。
しかし、今回はそのメッセージがなぜか心に響きました。
生命は死を超えているというメッセージなのです。
それは、「大きな生命」につながります。
世界全体が生きているオートポイエーシスなシステム。
そして、生命の「愛」こそが、そのシステムのアノマリー(変則要素)。
とてもわかりやすい話です。

アノマリーから世界をみると、世界は一変します。
いのちは「生まれてから死ぬ」と、一般には思い込まれています。
これは時間とは不可逆的な流れだという前提に立った発想です。
しかし、愛はその制約を受けることはありません。
愛に包まれた彼岸においても、時間の流れは融通無碍だとされています。
いや、時間も空間も一点に凝縮されているのが彼岸です。
彼岸は、時空間を失った「大きな生命」でもあります。
そうした「大きな生命」には、時間の前後はありません。
そこには生も死もない。
そのことは以前からうすうす感じていたのですが、「マトリックス」を観て、改めて納得しました。
愛は、個別の生死を超えているのです。
それがわかると平安が戻ってきます。
さびしさは変わりませんが。

死者を蘇られせることはさほど難しいことではないのです。
深く深く愛すればいい。
あらゆるものを、すべて深く愛すればいい。
まさに昨日書いた宮沢賢治がたどりついた世界です。
この映画を観たくなったのも、もしかしたらマトリックスが仕かけたのかもしれません。
それにしても、映画マトリックスにはノイズが多すぎます。
節子にはまったく不向きな映画です。
しかし、画面の向こうにずっと節子を感じながら観ていました。

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