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2013/01/17

■節子への挽歌1963:価値観の喪失

節子
今日もまた電話相談がありました。
若者自立支援に取り組んでいる知人からです。
それにしても、どうしてこうも問題が多いのでしょうか。
テレビなどで報道される事件など見ていると、社会が壊れだしているとしか思えません。

そういえば昨年末、マヤ暦の地球終末予言が話題になりました。
最終戦争を意味するハルマゲドン論が盛んに言われて時期もありました。
不謹慎なのですが、そうした地球破滅予言は、時に魅力的です。
節子を見送った直後、すべてが滅んでしまえばいいという「悪魔的」な願いを持ったこともありますが、そういう悪魔性が人には埋め込まれているようです。

今年になってから少し朱子学に関心を持って、何冊か本を読んだのですが、そこに儒教の四書のひとつ「中庸」に出てくるこんな文章を紹介しています。
「喜怒哀楽の未だ発していないのを中という」。
この文章をあげながら、朱子は、喜怒哀楽の未だ発していない状況では、善悪という概念はない、というのです。
愛する人を喪うと、人は思い切り、喜怒哀楽のシャワーを浴びせられます。
そして、天使にも悪魔にもなれるようになるのかもしれません。

ところで、この文章に出会って、こんなことを考えました。
「喜怒哀楽のシャワーを浴びると人は中になる」。
ここで「中」とは、善悪を超えてしまうという意味です。
たしかにあまりの喪失体験をしてしまうと、価値観も喪失してしまうような気がします。

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