■節子への挽歌1960:「ことばが沈黙する時、からだが語り始める」
節子
今日はもう一つ挽歌を書くことにします。
雪景色を見たせいか、今日は心身が彼岸を向いています。
精神病理学者のビンスワンガーは、「ことばが沈黙する時、からだが語り始める」と言っているそうです。
これはとてもよくわかる言葉です。
言葉で語れる喜怒哀楽は、日常生活にあふれています。
しかし時に、言葉が出てこないような喜怒哀楽もやってきます。
そういう時にも、言葉が発せられることはありますが、それは、からだに語らせることを避けるためかもしれません。
そのことばは、内容のない型式的なことば、あえていえば、嘘が多いはずです。
ことばは嘘をつけますが、からだは嘘をつきません。
ですから、からだが語りだすのは、自分にとっても脅威になりかねないからです。
「ことば」と「からだ」。
どちらが雄弁でしょうか。
ことばは多弁になれても、雄弁にはなれないかもしれません。
もしそうであれば、寡黙の人ほど雄弁なのかもしれません。
説得力をもつのは、ことばの語りではなく、からだの語りです。
それは、言葉を発する当事者にも、当てはまることかもしれません。
人が言葉を発するのは、相手に対してだけではありません。
多くの場合、言葉は自らにも向けられています。
挽歌が書けるということは、私自身がまだ、節子を失ったことに正面から向かい合っていないのかもしれません。
ビンスワンガーのテーゼにしたがえば、挽歌をやめた時に、私のからだが語りだすのかもしれません。
そんなことを考え出すと、挽歌を書くことにいささかの躊躇が生まれてくるのです。
節子が望んでいるのは、ことばとしての挽歌ではなく、からだとしての挽歌なのでしょうか。
最近どうも、挽歌が理屈っぽくなってきています。
思考がどんどん内向しているのです。
しかし、そのおかげで、私には生きることの意味や世界の意味が、少しずつ見えてきているような気がしています。
そして、その先に節子がいるような気がしてきています。
節子が私をそうした方向に導いているのかもしれません。
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