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2013/02/27

■節子への挽歌1995:自らと寄り添う生き方

節子
寄り添う人がいるということの大切さを、最近改めて痛感しています。
人は一人で生きていくには弱すぎる存在なのかもしれません。
一人だとどうもバランスがとりにくい。
これは自立していない私だけの事情かもしれませんが、周りを見ていても、そう感ずることは少なくありません。

もちろん、寄り添う人は伴侶とは限りません。
私の場合は、たまたまそれが伴侶である節子だっただけの話です。

福祉の世界では、寄り添うことの大切さが盛んに言われます。
「情緒的一体感の共有」とも言われていますが、そういうことは簡単なことではありません。
とりわけ最近の風潮は、忙しさのあまり、そうしたことさえもがテクニックやスキルの問題として捉えられがちです。
「寄り添いの大切さ」を口にする福祉関係者は多いですが、それを実践している人は、そう多くないように思います。
むしろ、なんでもない日常生活でこそ、寄り添いは実践されています。

「寄り添う」というとき、本当に大切なのは、相手との接し方ではなくて、自らの生き方なのです。
自分が、ある意味での当事者になると、そのことがいたいほどわかります。
他者と寄り添うためには、まずは自らと寄り添わなければいけません。
「自らと寄り添う」とはおかしな表現ですが、自らに素直になり、自らとしっかりと向かい合うと言うことです。
これはできているようで、意外とできていないものです。

節子がいたころは(いなくなった今もその延長ですが)、節子に向き合うことで私は自らに向かい合っていました。
別にそう意識していたわけではありませんが、そうでした。
だからある意味で、自らを相対化でき、生きるバランスがとれていたのです。
それがいまは難しい。
「人」という文字は、支え合う形になっていますが、その支え合いの意味はとても深いような気がします。

最近、あまり挽歌が書けていませんが、それがもしかしたら私の生き方のバランスを崩しているのかもしれません。
もう少しきちんと自分自身に立ち向かわないといけません。
そのためにも挽歌はきちんと続けないといけません。
挽歌を書き続けると、元気が出てくるかもしれません。
自分が見えてきますから。

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