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2013/02/20

■「現在の法律ではそうなってしまう」

なんともやりきれません。
亀岡市で昨年4月、集団登校中の児童らの列に車で突っ込み、死傷事件を起こした19歳の少年の判決があまりにも軽いために、テレビで多くの人がおかしいといっています。
にもかかわらず、最後にはこういう言葉で切り上げられます。
「現在の法律ではそうなってしまう。法律を変えなければいけない」。
なんとばかげたことでしょう。
手段としての法律が目的になり、基準としての法律に規制されているわけです。
そこには、微塵も「リーガル・マインド」や「法の精神」は出てきません。

もっとおかしいのは、犯罪が奨励されていることです。
判決では、運転免許を持っていなくても無免許運転を続けてきたから運転技術はあるという判断がなされています。
この裁判官は、運転は技術だけで成り立つと思っているようですが、一度、自動車教習所に行きなおすべきでしょう。
運転は単なる技術ではありません。心構えも重視されています。
この論理は、無免許運転という違法行為を繰り返すことがプラスに評価されています。
ここでも「リーガル・マインド」や「法の精神」は無視されています。

法は、一種の社会契約です。
近代法は、解釈が実に柔軟にできるようになっています。
ですから、非武装と言いながらイラクにまで派兵できるのです。
だから人間が法廷で解釈する裁判制度ができているわけです。
同じ事実が、無罪になったり有罪になったりもするわけです。
そうでなければ、機械に評価させ執行させればいいだけの話です。
税法や行政手続法では、そうなっているかもしれませんが、それは関わる人間が機械を代行する仕組みになっているからです。
人の生き死にが関わっている事件まで、機械もしくは機械のような代行者に担当して欲しくないと思います。
いささか短絡的に書いているので、またお叱りのメールが来るでしょう。
しかし、それにしてもやりきれない判決です。

被告の19歳の少年も、これでは報われないでしょう。
法律は守らなくてもいいという生き方を認められたことで、彼はまた過ちを犯しかねません。
起こした過ちは、正しく償われてこそ、意味があります。
たった3年の差で、彼の不幸は増してしまったように思います。
このことは、被告の少年の責任ではありません。
まわりの人たちの責任だろうと思います。

昨今の裁判の本質の一つを垣間見た気がします。
この事件だけではありませんが、法律や制度のせいにして、責任をあいまいにする風潮が、ともかくやりきれません。

時評を書く気にならなくなってだいぶたちますが、あまりにやりきれないので衝動的に書いてしまいました。
きっと感情に任せた、支離滅裂な文章でしょう。
それほどやりきれない気がしています。

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