■節子への挽歌1982:湯島の資料整理はなぜか心が冷えてしまいます
節子
最近、湯島をいろいろなグループに開放してきましたが、オフィスとして使用するところも出てきました。
それで私の資料を整理しだしています。
もうかなり整理したのですが、やはり20年も同じところを事務所にしていると、知らず知らずのうちにさまざまな資料がたまってSSっしまうものです。
今日は3時間ほど一人になる時間ができたので、かなり整理を進めました、
なかには節子ともシェアしてきたものもあります。
そういうものが出てくると一瞬、動きが止まります。
湯島のオフィスを開いてからしばらくの間、訪問客の人の写真を撮って、ノートに一言書いてもらっていました。
それも出てきましたが、懐かしい人がたくさんいます。
もう亡くなった方もいます。
この人は誰だろうと思い出せない人もいます。
それにしても、あの頃は節子も私も生き生きとしていました。
新しい生き方への出発でしたから。
しかし、私たちの生き方は、だれにも伝わらなかったのかもしれません。
いまでは大企業になってしまった企業を起こしつつあった人が、私のことを知ってやってきてくれたことがあります。
私を誘いに来てくれたのです。
その人は2時間ほど話して、私がもうビジネスの世界には戻らないことを知って、二度と来ませんでした。
私が考えるビジネスとその人が考えるビジネスは、全く違っていたのです。
昨年も、ある著名な経営学者の方が、私の友人3人ほどから私のことを聞いて、湯島に来てくれました。
2時間ほど話しましたが、一度、一緒に飲みましょうと言ってくれましたが、その後、連絡もなく1年が過ぎています。
そういう感度のいい人もいましたが、多くの人はたぶん私の生き方を理解してはくれなかったと思います。
それでなんとなく付き合ってくれていたのです。
しかし、考えの違いは次第に関係を疎遠にします。
あんなによく通ってきていたのに、最近は全く連絡のない人も少なくありません。
でもそうした人たちに支えられて、私の世界は豊かな世界になっていたのです。
世間から中途半端に脱落した生き方は、退屈はしません。
しかも節子が付き合ってくれていたから、私には申し分ない生活でした。
佐藤さんはどうやって暮らしているのか、とよく質問されましたが、今から考えると実に豊かな暮らしでした。
お金で苦労したことは、私自身は一度もありませんでしたし。
よくまあ好き勝手にいろんなことに取り組めたものだと思います。
節子や娘たちには、苦労をかけたのかもしれません。
まあそんなことを思い出してしまう資料がいろいろと出てきました。
節子がいたら、きっと話が盛り上がったのでしょうが、一人で整理していると寂しくなるだけです。
そろそろ誰かが夜の集まりにやってきそうです。
こういう時間も、節子とは何回も体験した時間です。
何だか心が冷えてきました。
困ったものです。
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