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2013/02/07

■暴力の配分システム

柔道界での暴力・パラハラ問題がむしろ広がりを見せていますが、解決に向かっての方策はなかなか出てきていないように思います。
桜宮高校の体罰問題と同じように、私には問題の捉え方が違っているように思えるので、コメントする気にもなりませんが、いつもこうした問題が起こると気になることがあります。

近代国家の存在基盤のひとつは、暴力の独占です。
つまり、リンチ(私刑)は禁止されたのです。
個人的な暴力は禁じられ、国家のみが戦争や刑罰で、暴力を「合法的に」に行うことができるようになったのが、近代国家です。
しかも、国家の主権は国民にあるという場合には、国家の行う暴力は、つまりは国民の行う暴力と言うことになり、責任の所在は国民になっていきます。
つまり国民主権の国家における暴力は、国外に対してはすべて防衛的なものになり(戦争はすべて防衛の名目で行われますので、すべて「自衛」戦争です)、国内においてはすべて自虐行為になります。
そこでは多くの場合、個人としての人間ではなく、国家という「システム」が発想の起点です。
そうした状況の中で、コラテラルダメッジが行われ、冤罪が引き起こされます。
また一部の「代理人」に暴力行使権が配分されます。
つまり暴力は「パワハラ」の一つの手段でしかありません。

ところで、国家はその内部構造にさまざまなサブシステムを持っています。
学校も、家族も、企業も、全柔連、山口組も、宗教組織も、そうしたサブシステムです。
そうしたサブシステムに、国家は自らが独占している暴力を配分しているわけです。
そのため暴力団体やあまり宗教とは思えないような宗教組織が、国家の法律によって存在を認められ、暴力の行使さえもが許されているわけです。

たとえば、最近でこそドメスティック・バイオレンスとして外部の干渉が合法化され、犯罪行為になるようになりましたが、かつては家族内での暴力(身体的な暴力だけではなく、身売りなども含め)は国家のそれと同じようにある段階まではとがめられませんでした。
そうした構図は、今もなお、いたるところにあります。
学校では体罰として受容され、スポーツ界では指導として受容されています。
桜宮高校の顧問も柔道の監督も、学校やスポーツ界という国家のサブシステムに守られていればこそ、逮捕さえされません。
普通であれば、逮捕されるような事案だと私は思いますが、国民の多くもまた、体罰や指導として許してしまっています。
それに相変わらず、「体罰」とか「指導」などという言葉が使われ、事実を覆い隠しています。
そこに、私は国民がいかに深く国家に呪縛されているかを感じます。

国家による暴力管理は、サブシステムにおける暴力管理の上に成り立っているわけです。
銃社会のアメリカは、少し構図が違うように思いますが、そこでは時々、個人の暴力の暴走があります。
しかし、これもまたひとつの暴力管理構造かもしれません。
こうした状況を生き抜くためには、自らが暴力に依存しないことでしょう。
そういう生き方をしていきたいと思っていますが、時に抑えがたい邪悪な怒りが心に芽生えるのが悲しいです。

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コメント

下の者は優秀。
指導者は愚鈍。
国がひっくり返った時にも、責任者はでなかった。
分かっている。分かっている。皆、分かっている。
わかっちゃいるけど、やめられない。
ア、ホレ、スイスイ、、、、、、

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://3379tera.blog.ocn.ne.jp/blog/

投稿: noga | 2013/02/08 03:02

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