■節子への挽歌1980:惜しまれることなく愛しまれる人の幸せ
節子
最近、市川團十郎さんが亡くなりました。
66歳でした。
訃報や葬儀に関するニュースをテレビで見るのは、私は好きではありません。
「お別れ会」は、そのもの自体が好きではありませんから、テレビも見ません。
ちなみに、親しい友人であろうと、「お別れ会」には参加しません。
なにやらはしゃいでいるようで、違和感があるのです。
しかし、時々、ニュースで死者を悼む人の話を見聞することがあります。
時々、気になる言葉があります。
「惜しい人を亡くした」「もったいない」というような言葉です。
「惜しくない人」がいるのかというのは「ひがみ」でしょうが、「もったいない」という言葉には昔から抵抗がありました。
もったいないと思う対象は何なのでしょうか。
これはひがみではなく、「もったいない」と思われることへの「同情」です。
これもしかし、「ひがみ」かもしれません。
團十郎のように、存在感があり、社会の大きな一角を占めているような人になると、その喪失はたくさんの人に影響を与えます。
ですから多くの人が「惜しい」と思い、社会そのものにも大きな損失を与えることは間違いありません。
でも、「もったいない」という言葉には、どこか違和感を持ちます。
新聞やテレビで、有名人の訃報が報じられるたびに、私はむしろ、その人の身近な人の悲しみを思います。
愛する人を愛(お)しむことと社会の中で大きな役割を担っていた人を惜しむことは、全く別の話です。
惜しまれることなく愛しまれる人の幸せもあるのかもしれません。
「もったいない」人にはなれなかった人のひがみかもしれませんが。
愛する人を喪う体験をすると、人は言葉に敏感になるのかもしれません。
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