■節子への挽歌1988:「与えられんがために、われ与う」
マックス・ウェーバーは「宗教心理学」のなかで、祈りの本質は、神への礼拝ではなく、神に願いをかなえてもらうための呪文であり、神への強制だと書いています。
宗教以前の呪術は、それを物語っています。
神にお供え物をする見返りに、現世的利益を期待するわけです。
ウェーバーは、それを「神に贈与することによって神を強制する行為」と言うのです。
でも、そうでしょうか。
私はできるだけ素直に生きることを目指しています。
ですから、小賢しい駆け引きや目的目当ての行為は、意識的にはできるだけ避ける生き方をしているつもりです。
いいかえれば、「与えられんがために、われ与う」という姿勢は、私にはあまり好ましいこととは思えないわけです。
むしろ、何も期待することのない無償の行為をできるだけ増やしていきたいと思っています。
そういう生き方をすれば、期待を裏切られることはもちろん、騙されることも怒りを感ずることも起こらないはずです。
そうであれば、それこそ平安な生を手に入れられるというわけです。
そうは思ってはいますが、現実はなかなかそうもいきません。
しかし、正面から「与えられんがために、われ与う」といわれると、ちょっと違和感があります。
私は毎朝、仏壇の節子に声をかけながら、大日如来にも祈りをあげています。
時に頼みごともします。
だから、私も仏に強制しているのかもしれません。
しかし、なかなかかなえてはもらえませんが、祈りごとをするだけで、実は十分に与えられているのかもしれません。
仏の前での祈りは、なぜか心を和めてくれるからです。
こう考えると、実は「与うこと」と「与えられること」は同じことのような気がします。
マックス・ウェーバーは、もしかしたら神に祈ったことがないのではないかと思います。
祈るという行為は、形ではありません。
時に心身からにじみ出てくるのです。
たしかに、時に「宝くじを当ててください」などと仏に頼むこともありますが、それはたぶん「祈り」ではありません。
仏へのお供えも決して贈与ではなく、今様に言えば、シェアです。
祈りとはシェアすること。
これが最近の私の思いです。
「与える」とは、実はシェアすることだと気づくと、世界はまた変わってみえてくるのです。
これも節子から教えてもらったことと言ってもいいでしょう。
ちなみに、
「与えることで与えられる」。
ウェーバーの言葉をそう読み直せば、とても共感できる言葉になります。
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