■節子への挽歌1990:完成することのないプロジェクト
節子
ユカから最近のお父さんの姿を節子が見たらなんというだろうといわれてしまいました。
どうやら最近の私には緊張感がないようです。
だらだらしていると言うことです。
節子がいるときに、緊張感などあったとは思いませんが、確かに最近の生活ぶりは「ズボラ」と言われても仕方がありません。
節子が知っている私とは、ちょっと違うかもしれません。
言い訳的にいえば、何をやっても張り合いが出てこないのです。
困ったものです。
伴侶を亡くすということ、家族を亡くすということは、たぶんこういうことなのでしょう。
自分がどんどんと壊れていくような、そんな気もします。
節子と一緒だったころは、何かを創りあげていくという高揚感がいつもどこかにありましたが、いまはそういうものが感じられません。
だからといって、何がどう変わったかというわけでもないのです。
しかしそういう状況が長く続くと、自分の中で何かが壊れていっていることを感じないわけにはいきません。
一緒に暮らしていると言うことは、そういうことなのでしょう。
支えあって、一緒に創り上げてきた人生であれば、その片割れがいなくなってしまえば、それは完成することのないプロジェクトになってしまい、その先は実にむなしい作業にしかなりようがないのです。
これまでの人生さえもが、何か否定されたような気分になることさえあります。
またなにやら暗い話を書いてしまいましたが、最近、どうも生きるリズムが取り戻せません。
しかも、その理由がよくつかめない。
10年以上にわたり、毎週日曜日に私は必ずホームページを更新してきました。
どんなに忙しくても、出張していようとも、必ずそれだけは守ってきました。
それは自分の生き方を確認するという意味を持っていました。
そして私がいなくなった後、節子がそれを読むだろうと思っていました。
だから几帳面に守っていたわけです。
しかし、どうもそれができなくなっています。
一昨日の更新をやっと先ほど終えたところです。
しかも最近の更新はほんの一部で、ミニ更新としかいえません。
そんな状況が1年以上続いています。
そもそもホームページを更新することさえ、あんまり意義を感じられなくなっているのです。
読者などいないのですから、更新など苦労してすることもないと思ってしまいます。
私の心の中で何かが変わってきていることは間違いありません。
それにしても、完成することのないプロジェクトを生きることは、それなりにつらいものだと、最近思えて仕方がありません。
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