■65歳定年制発想への違和感
今年4月から「改正高年齢者等雇用安定法」が施行され、実質的な「65歳定年制」が義務付けられることになりました。
私が会社に入った時には55歳定年が一般的でしたが、私自身は「定年」という発想が理解できず、早晩、なくなるだろうと思っていましたが、50年も経つのにまだなくなっていなかったのかと驚きです。
人間に定年を決めることにどうしてみんな疑問を持たないのかと不思議です。
まあそれはそれとして、やはりいくつかの点でおかしな発想だと思います。
3年ほど前でしょうか、経済産業省もつながりのあるある研究会で、このテーマが取り上げられました。
最初に聞かされたときには、耳を疑いました。
若者たちに十分に働く場を用意できない状況なのに、さらに高齢者たちが働く場に座り続けるのかという、怒りさえ感じました。
その委員会では、その種の発言をしましたが、たぶんその怒りは伝わらなかったでしょう。
反対する企業の人事部長の反応は、それがコストアップにつながるというものでした。
そういう問題ではないだろうと思いました。
テレビでは、日本の年功序列制度が、こうした議論を引き起こすという人もいます。
ヨーロッパ型の勤務形態だと、働きに応じた賃金体系なので、定年があまり意味を持たないというのです。
とても論理的で、わかりやすいです。
年齢ではなく働きに応じた処遇体系であれば、定年制度はまったく不要です。
それはそれで納得できる議論です。
しかし、私自身はこうした議論を聞いていていつも感ずるのは、「働くこと」と「稼ぐこと」が混同されているということです。
働くことと給料とはまったく別のことというのが、私の基本的な考え方です。
そして、人が生きるということは「働くこと」であり、定年などはあるはずもないと思っているのです。
日本では働くというと「雇用労働」だと思いがちですが、組織に依存して働くだけが「働き」ではありません。
自分で仕事を起こすこともあれば、仲間と一緒に「協同労働」で働くこともあるのです。
そうした自分が主役で働くのであれば、誰かが勝手に決める定年などあるはずもありません。
丁稚奉公から暖簾わけしてもらって自立していくという、日本にあった働き方では、定年はむしろ「自立的な働き」への出発点でした。
65歳まで働くのはいいでしょう。
しかし組織の働きの場は、できるだけ席を空けて、若い世代に譲っていってほしいものです。
それに組織で金銭を稼いできた経済的に恵まれている高齢者は、むしろお金を社会に放出して行く働き方に身を移してほしいです。
そうすれば、お金では得られない生きる喜びを体験できるはずです。
働くことは決して稼ぐことではないのです。
雇われ人の世界から抜けないと、誰かのために働かされ続けることになりかねません。
それに、企業は単に稼ぐ場ではなく、若者が働き方を学ぶ場でもあるのです。
それに多くの人が気づいて欲しいと思います。
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