■節子への挽歌2037:痛みの中で痛みを痛む
最近、あまり体調がよくない状況が続いていましたが、だいぶ復調してきました。
もう大丈夫でしょう。
いろんな人にお気遣いのメールをいただきました。
私のように、何でも書いてしまうと、いろんな人に余計なお気遣いをさせてしまうのですが、そのおかげで、私自身は大きな元気をもらってしまっているわけです。
わがままな、身勝手な性格です。
大阪大学大学院准教授の篠原雅武の『全-生活論 転形期の公共空間』という本があります。
篠原さんは、「痛みが生じるのは、私たちの生きている状況が脆くて、壊れやすくなっているからで、壊れそうなところに「生じる」のが「痛み」なのです」といいます。
最近の私の体調不良は、身体的な不調もありますが、たぶんに「痛み」に通ずるものです。
友人知人の痛みを勝手に引き受けてしまったり、政治状況や経済状況に心身が不整合を起こしたり、あるいは自らの卑しさに気づいて心身が萎えたりしているわけです。
とりわけこの1年は、社会の住みにくさを実感して、それが体調にもつながっているように思います。
篠原さんは、こう書いています。
「痛み」は個人的なものであり、その原因を自己責任で除去すべきものと言ってしまうと、そういった個人を超えた要因が隠蔽されてしまうのではないでしょうか。ですから、「痛み」はただ個人的なものではなく、私たちをとりまきながらも自立している領域の失調、歪みのせいで生じさせられる実在性をもつものと考えた方がいいのではないかと思います。篠原さんとは思考の順序が正反対なのですが、私もそう思います。
そう考えるならば、目の前にいる他者が顔を歪ませてうずくまっている時や、諸々の事件報道(イジメや虐待)を目にした時、自分の「痛み」ではなくても、つまりはその当事者ではなくても、想像力によって、他者の「痛み」を感知し、それを生じさせている世の歪み、失調を考えることができるようになるかもしれません。
私の場合は、節子との別れの体験のなかで、他者の痛みをそれなりに心身全体で感知できるようになりました。
それは言葉では説明できないものですが、伝わってくるのです。
その感受性が広がっていくと、社会の壊れや失調、歪みが生み出す痛みが心身に入りやすくなってきます。
そしてそれに同調して、気が萎えていると心身が不安定になり、体調を狂わせてしまうわけです。
そこから抜けでる力を与えてくれるのは、これもまた、社会のようです。
スパイラルが少しだけですが、上向きました。
節子は、いつもスパイラルを上向きにさせてくれる存在でしたが、いまはたくさんの友人知人のやさしさが、その役割を果たしてくれているようです。
今日も4人の人から届いたさりげないメールが、私の意識を少し変えさせてくれたような気がします。
痛みも社会から来るように、前に進む力も、社会からやってくるようです。
人は社会に支えられて生きている。
つくづくそう思います。
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