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2013/03/07

■原発再稼動の是非を決められるのは誰か

脱原発への取り組みが反転しだしています。
原発再稼動の是非に関しては、賛否両論がありますが、いずれが絶対に正しいとはいえないでしょう。
技術には事故はつきものですし、いまや生活には欠かせない自動車にしても、あいかわらず事故は多く、毎日、自動車事故で数名の死者も出ています。
電力が不足すれば、それによってこうむる被害も大きいかもしれません。
経済的な理由や雇用の視点から、原発再稼動を歓迎する「生活者」がいることも事実です。
どんなものにも、メリットとデメリットがあるものです。

しかし、そこには大きな落とし穴があります。
メリットとデメリットを受ける人が違うという落とし穴です。

原発を再稼動させた時の利益は誰のものでしょうか。
もちろん、現在の社会で生きているすべての人が、何らかの利益を享受することは言うまでもありません。
福島原発で発電した電力は首都圏で使われているから、地元にはメリットがないというような議論もありますが、そんなことはありません。
地元は原発という産業を「誘致」したことで、多大な経済的メリットを受けてきています。
いまさらそんなことを住民たちに言ってほしくはありません。
立地を引き受けるところがなかったら、原発はできなかったのですから。

では事故が発生した時の損害は誰が受けるのでしょうか。
これもまたすべての人といえるでしょう。
事故発生地に近いほど、被害は大きいでしょうが、長い目で見たら、被害者は広範囲に広がっていくでしょう。
しかし、それだけではありません。

放射線汚染に関しては、時空間を限定できないことが問題なのです。
被害は国境を越え、世代を超えて、広がっていくことになります。
事故の元を解決すれば、事態はかなり抑えられます。
しかし、福島原発事故の経験からは、元を解決することはかなり難しいでしょう。
福島原発事故はいまなお収束などしておらず、いまだに放射線を発散しているわけです。
そして、その影響は、次世代にまで及びます。

そうしたことが明らかになったいま、原発再稼動の是非は、一国だけで決められるものではないように、私には思います。
私たちは北朝鮮の原発実験を非難していますが、私たちと彼らとどこが違うのか、私にはよく理解できません。

原発を稼動させることの、利害得失の非対称性をもっと私たちは認識すべきではないかと思います。
そして再稼動は一国の政治だけで決めるべきテーマではないことを認識すべきです。
にもかかわらず、一国どころか、その一国の一部の人たちで、再稼動への流れが加速されていることに、悲しさを感じます。
国民の多くが原発依存社会を望むのであれば、そうした社会にうまれたことを嘆くしかありません。

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