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2013/03/20

■節子への挽歌2021:自然も単純に循環はしていない

節子
各地で桜が咲き出しました。
残念ながら、今年のわが家の2本の桜は全滅です。

節子は桜が好きでした。
ギリシアのスニオン岬に行った時にも、ここに桜を植えたらどうだろうと言っていました。
ギリシア大使館に手紙を書いたような気もします。

春になると桜が咲く。
毎年繰り返される、そんななんでもないこともうらやましく思うようになりました。
毎年、生を繰り返す植物は、今の私にはとてもうらやましい存在です。
春が来て、桜が咲いても、一緒に見に行く人もいない。
私にとっては、桜の意味が全く変わってしまったのです。
そして、それまでの四季をめぐる循環的な暮らしが、何か先に向かって一直線に進む直線的な暮らしになってしまったのです。
最初は、悲しみが繰り返される循環的な暮らしだと思っていましたが、どうもそうではない。
戻ることのない、一方向に進むだけになったのです。
時間感覚が大きく変わってしまったのです。

これはもしかしたら、伴侶を失ったからだけではなく、年齢のせいなのかもしれません。
しかし、節子との別れが、それを意識化させたことは間違いありません。
一見、繰り返されるように思えて、もしかしたら来年はこないかもしれない。
節子との別れを体験したことで、それが実感できるようになったのです。
伴侶との一緒の暮らしは、永遠と続くわけではない。
そして、自らの人生もまた、永遠に続くわけではない。
そのことは、頭ではわかっていても、心身は循環に慣れてしまっていたのです。
朝が来れば日が昇り、春が来れば桜が咲く。
いつも隣に節子はいる。
しかし、その太陽も桜も、同じではないのです。
そして、節子のように、もしかしたらいなくなるかもしれない。

レーチェル・カーソンは「沈黙の春」で、循環が断ち切られる恐怖を予告してくれました。
しかし、それを頭ではなく心身で受け止めて、生き方を変えた人はほとんどいないでしょう。
エコロジストを自称していた私も、そう生き方が変わったわけではありません。
いつの間にかわが家も自家用車を買い、洗剤を使うようになってしまいました。

しかし、伴侶を失うと、考えが変わります。
今日と同じ明日が来るという確信が消え去ります。
だから今日を大事にし、明日を大事にしなければいけないと思えるようになるのです。
それを強烈に教えてくれたのが節子です。
闘病の時も、そしていなくなってからも。

妻の死と地球環境をつなげるには、いかにも牽強付会のように感ずるかもしれません。
しかし、時間感覚が変わると、世界は違ってみえてきます。
自然は、循環などしていないのです。
たとえそう見えたとしても、

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