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2013/03/31

■節子への挽歌2036:過去を語ることの大切さ

節子
昨夜、「小さな村の物語 イタリア」の143回目をテレビで観ました。
その内容に関しては時評編にも書きましたが、それを観ながら、私たち夫婦にはほんとうに「生活」があったのだろうかとちょっと心配になってしまいました。
今から考えると、私たちはゆっくりしていたようで、あまりゆっくりしていなかったような気がします。
確かに2人で話し合う時間は多かったですし、一緒に旅行にもよくいきました。
しかし、このテレビに出てくる夫婦を観ているとどこか違うのです。
それは毎回感ずることでもありました。
いったい何が違うのか。

今日、時評編を書きながら、違いが少しわかったような気がしました。
それは、私たちはあまり「過去を語りあう時間」がなかったことです。
私たちの話は、いつも、過去ではなく未来であり、少なくとも現在でした。
過去はいつかゆっくりと振り返り楽しめる時が来る。
節子も私も、そう思っていたのです。
そのための写真もビデオも、そして思い出もたくさん残していました。

しかし節子が逝ってしまったために、私たちには過去を語る時間がなくなってしまったのです。
2人で懐かしむためにあったであろう、さまざまな苦労やつらさ、喜びや楽しさ、そういうものがすべて無意味になってしまったのです。
語り合う節子がいなくなれば、写真もビデオも、思い出も、すべて無意味な存在であるばかりか、そこに「いのち」を与えることもできません。
写真もビデオも、見る気にもなれません。
不思議なことです。

「生きる意味」を問い続けたフランクルは、「過去」こそが大事だといっています。

過去というのはすべてのことを永遠にしまっていく金庫なのです、とフランクルは言います。

過去は、その人の人生を豊かにするかけがえのない財産というわけです。
しかし、節子がいない今となっては、そのかけがえのない財産も、「宝の持ち腐れ」かもしれません。

私たちの「生活」はあったのかという、最初の問いに戻れば、生活とは、そうした大事にためてきた「過去という財産」を楽しむことなのではないかと、この番組を見ながら、いつも思うのです。
前だけ向いて進むというのが、私の生き方でしたが、そろそろ後ろを向きたいと思った時に、その相方がいないことの寂しさを改めてこの番組を観ながら感じます。
私には、これからも前を向いた生き方しか、できないのかもしれません。

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