■節子への挽歌2012:人はただ「存在する」だけでだれかの役に立っている
節子
昨日、体験した地下鉄でのちょっとした事件のことを今日の時評編に書きました。
そこに、ある人の言葉を引用させてもらいました。
重ねて、ここでも書かせてもらいます。
隣席の女性は、佐藤さんの存在に救われたでしょうね。時評編を読んでもらえば、その意味がわかっていると思いますが、人はただ「存在する」だけでだれかの役に立っているのだということが、最近、よくわかってきました。
誰かの力になるとは色々な形があると思う今日この頃です。
この挽歌ではよく書いていますが、「大きないのち」という視点で考えると、それは当然のことでしょう。
「大きないのち」にとっては、無駄な存在などないのです。
そこに気づけば、人は孤立などしないのです。
そこに気づけば、だれもに感謝の気持ちを持てるようになるでしょう。
それに気づけば、人は生きる自信をもてるようになるでしょう。
しかし、悲しいことに、多くの人はそれに気づかない。
そして、ある人が亡くなると、それに気づくのです。
誰かがいなくなることの、心の隙間は、そうならなければ気づけないのです。
人間はなんと鈍感なおろかな存在なのか。
最近、自らの愚鈍さを改めて思い知らされます。
もちろん、それは決して悪いだけとではありません。
愚鈍さの効用というものも、この歳になると少しわかるような気がします。
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