■節子への挽歌2022:勘違いを質す人の不在
節子
人はよく勘違いするものです。
それを質してくれる人がいないせいか、最近、勘違いの連続です。
たとえば、先週から記録映画「自殺者1万人を救う戦い」のDVDを広げる活動を始めました。
呼びかけた途端にワッと連絡が来ましたので喜んだのですが、1週間したら、パタッと止まってしまいました。
1週間で用意した130枚がなくなるかも知れないと思っていたのに、実際にはまだ40枚も残っています。
1時間も自殺をテーマにした映画をみるというのは、かなりの壁があるようです。
そんなことは素直に考えたらすぐわかることです。
しかし、その渦中に入ってしまうと、その感覚がなくなってしまいます。
一昨日、放射線汚染に関する集まりをやりました。
10人の参加者がありましたが、これもわっと集まるのではないかと思っていました。
しかし、いろいろと呼びかけて10人です。
この集まりは3回目ですが、生々しい話を聞けるのに、なぜみんな集まらないのだろうと思ってしまいます。
そう思うのは企画者の勘違いなのですが、一人で取り組んでいると、自分の行動を相対化できないことが多いのです。
この3年間、私も活動を再開してきましたが、そうした勘違いが少なくありません。
そして厭世観や人嫌いに陥ってしまうわけです。
人は、いなくなってから、その存在の意味がわかるものなのかもしれません。
いる時に考えている意味は、まああんまり本質的なものではないようです。
節子のありがたさは、いた時といなくなってからとでは違います。
価値は、不在になってから生まれてくるのかもしれません。
改めて、節子と一緒に暮らした40年が、私の人生だったのだと思います。
節子はいなくなりましたが、それでもまだ、時に私の行動や考えを質してくれています。
ただ私がそれに気づくのが、いつも少し遅すぎるのですが。
困ったものです。
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