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2013/03/02

■節子への挽歌2001:「いい人」

節子
自分で言うのは何ですが、しかし節子は賛成してくれるでしょうが、私は「いい人」です。
私と付き合う人は、多くの場合、不幸にではなく幸せになるはずです。
なぜなら、私は誰かと付き合う時は必ず、この人のために何ができるだろうかと考えるからです。
まあ、これは私の勝手な推察で、これまでに湯島に来た人の中で、3人の人が怒って帰ったことがありますので、私の勘違いかもしれません。

前にも書きましたが、湯島の私のオフィスのドアには開所の時から、「Pax intrantibus, Salus exeuntibus.」と書かれています。
有名な言葉なのでご存知の方も多いでしょうが、「訪れる人に安らぎを、去り行く人に幸せを」という意味のラテン語です。
これは私の目指すことですが、その一方で、私の信条は、自らに素直に、なのです。
ですから時にちょっとしたことで気分を逆撫でされると感情的に反発してしまうことがあるのです。
それで怒って帰ってしまうわけですが、帰るくらいですから、かなり怒っているでしょうね。「安らぎ」とは無縁です。実に困ったものです。

でも、そうした不幸にめぐり合わない限り、私はいつもやってきた人に何かできることはないかと考えます。
ずっと一緒に暮らしていた節子なら、それを証言してくれるでしょう。
だから、私は「いい人」なのです。

しかし、それは何も私に限った話ではないでしょう。
人は素直に生きていれば、本来、みんな「いい人」なのです。
アダム・スミスは主著「道徳感情論」を、次のような文章で書き出しています。

人間というものは、これをどんなに利己的なものと考えてみても、なおその性質の中には、他人の運命に気を配って、他人の幸福を見ることが気持ちがいい、ということ以外になんら得るところがないばあいでも、それらの人達の幸福が自分自身にとってなくてならないもののように感じさせる何らかの原理が存在することはあきらかである」
 (新訳も出ていますが、この書き出し部分に限っては旧訳のほうがわかりやすいです)

スミスは、こうした認識に基づき、レッセ・フェールや見えざる手を肯定したのです。
だが残念ながら、肝心の経済学者は、あまりに利己的な人種だったために、おかしな経済学がはびこっているような気がします。

「いい人」で生きることは、本来、とても生きやすいはずです。
しかし、昨今の社会状況は、必ずしもそうではないのかもしれません。
「いい人」が挫折してしまう事例は、私の周りでも少なくありません。
かく言う私も、最近いささか生きづらさを感じ出しています。

「他人の運命に気を配って、他人の幸福を見ることが気持ちがいい」とスミスは書いています。
まさにその通りなのですが、最近は他人の幸福よりも他人の不幸の話ばかりが耳目に入ってきます。
そればかりか、私の身近な周辺さえも、不幸が増えています。
そんななかにいると、私もだんだん「わるい人」になりそうです。
「いい人」である私を支えてくれていた節子がいないのが、最近少し不安になっています。

ちなみに、節子は、ほどほどに「いい人」でした。
私のことを、少し「行きすぎだ」と言っていましたから。
でも、私から見ると、やはり節子のほうが、私よりも「いい人」のような気がします。
その模範の人がいないのも、不安です。

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