■節子への挽歌2024:長寿信仰
挽歌2010で、岡部医師のことを紹介しました。
その岡部さんの遺言としての聞き取りをまとめた「看取り先生の遺言」を読みました。
この種の本を読んだのは、節子を見送ってからは初めてです。
これまで「読む勇気」がなかったのです。
昨年、岡部さんとお会いした時には、すでに岡部さんは死を間近に確信していたのです。
実は、私は、その時に岡部さんに死相を感じていました。
でもたぶん、それは私の勘違いだろうと思っていました。
岡部さんのお話には、そんなことを微塵も感じさせないものがありましたし、講演の後、立ち話をした時も、その強い社会へのまなざしを強く感じたからです。
死を意識した人とは、とても思えませんでした。
しかし、その時には、もうこの遺言の聞き取り作業が進んでいたのです。
そのことを知って、読もうと思ったのです。
がんにことに関する詳しい部分は、さすがに冷静には読めませんでしたが、いくつか心やすらぐところがありました。
その一つが、「長寿信仰」への岡部さんの言葉です。
がんになって思うのだが、長寿信仰は患者さんを非常に苦しめるということだ。長生きがいいなんて誰が決めたのだろう。世界の長寿国になったことがなぜいいのだろう。日本人はいつからこれほどまで長寿を信仰するようになったんだろう。岡部さんは62歳で亡くなりました。
人間、60を過ぎたら、あきらかに生命体としての生存意義が終わっているのだ。ひと昔前なら、それ以上の長生きははかない夢に過ぎなかっただろう。それが医療の進歩によって可能性が出てきたため、いつの間にか目標に置き換わってしまったのである。
人間はほどほどでいいのだ。運がよければ長生きしている人もいる、くらいでいいではないか。60歳まで生きたんだからよかったな、で旅立たせでくれてもいいだろう。
奇しくも節子も同じ62歳。
この岡部さんの文章を読むまで、私は節子があまりにも早く逝ってしまったと思っていました。
それが、私の心をいつも苛むのです。
でも岡部さんは、「60歳まで生きたんだからよかったな、で旅立たせでくれてもいいだろう」と言うのです。
少し気が楽になりました。
もちろん、私にとっては、早すぎたという思いは変わりませんが、でもどこかにほっとする、
少し救われた気持ちが生まれました。
長寿信仰に、私もすっかりと浸かっていました。
長生きするに超したことはありませんが、長ければ良いわけでもない。
私自身も、長生きしようなどという執着はなかったのに、いつの間にか長生きが良いことだという思いになっていました。
大切なのは「長さ」ではなく「自分らしい人生」です。
節子は、節子らしい人生を生きたことは間違いないような気がします。
この本は、遺言などと書かれていますが、岡部さんの生き生きした人生が伝わってきます。
なぜ昨年お会いした時に、もっとゆっくりと話さなかったのか、改めてそれが悔やまれます。
恥じ入るばかりです。
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