■TPPを考える視座2:生活の視点から考えることの大切さ
TPP参加の是非をめぐる議論のほとんどが、「経済」や「産業」の視点から行われているように思います。
最近の経済や産業は、システムとして論じられることが多く、生業を基本とした経済とは似て非なるものになってしまったために、そこでの視野には「人々の生活」が欠落しています。
主役であるはずの人間が、どうもそこには見えません。
サブシステンス経済という言葉があります。
このブログやホームページでも何回か使っていますが、私自身まだ消化しきれていない言葉です。
私はイリイチの本でこの言葉を知りましたが、翻訳者である玉野井さんは「地域の民衆が生活の自立・自存を確立するうえの物質的精神的基盤というほどの意味」と訳しています。
人が生命として本来行っている「生命の維持や生存のための活動」といってもいいでしょうか。
このブログでも紹介した「アンペイド・ワークとは何か」の翻訳者の中村陽一さんは、サブシステンスを、単なる生命維持や生存にとどまらず、人々の営みの根底にあってその社会生活の基礎をなす物質的・精神的な基盤のことと考えます。
さらに視野を広げたのは、阪神・淡路大震災からサブシステンス社会へというメッセージをこめた西山志保さんの「ボランティア活動の論理」です。
彼女は同書の中で、サブシステンスを「身体性をそなえた人間が、自己存在を維持するために他者に働きかけ、支えあうという、生存維持の根源的関わり」と捉えます。
とても共感できる捉え方です。
いずれにしろ、資本に雇用された賃労働とは違って、生活そのものとのつながりを感じさせる活動です。
いささかややこしい話をしてしまいましたが、私自身は極めて簡単に、サブシステンスを「自らを生きるための活動」と捉えていますが、そうした視座から、最近の経済や産業を考えると、それらがサブシステンス、つまり私たちの生きる基盤を支えるどころか、壊す方向に動いているのではないかと思えてなりません。
つまり、最近の経済は、人間までをも無機質な要素にしてしまった、死の経済だと思えてならないのです。
そのわかりやすい例が、日本の農業です。
これに関しては、すでに1970年代に坂本慶一さん(「日本農業の再生」)がこう指摘しています。
「農」を排除した工業化社会は既に「死」の論理を内包しつつある。このメッセージは、私が会社を辞める一因にもなったものですが、残念ながら時代の流れは、ますます私が懸念した方向に向かっています。
「農」とは, 農業・農村・農業社を包括するとともに, 農業の本質である「生」の論理を意味している。
「生」は生存, 生命, 生活を包含する。
TPPの議論を見ていて、それを改めて感じます。
長々と書いてしまいましたが、数字だけの資本のための経済ではなく、人間が主役のサブシステンスな経済へと、私たちは意識を変える必要があります。
経済成長が目的ではなく、みんながそれぞれに生きやすい社会を支えてくれる経済こそが、いま大切です。
TPPの問題も、そうした視座から見直してみると、新しい見え方がしてきます。
医療や福祉の世界での影響は、比較的わかりやすい分野です。
それをきちんとテレビは報道してほしいですが、しかしそれを観る時間がないほど、賃労働者は働かされています。
そして、そうした人たちが、TPP賛成に一票を投じているのが現実でしょう。
一番被害を受ける人たちが賛成するという、悪魔の方程式が、ここでも成り立っているのです。
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