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2013/03/23

■節子への挽歌2025:最後に話したい人

節子
昨日、社会教育的な映画制作をしている斎藤さんがやってきました。
前に菊井さんと一緒に湯島に来たことがあるのですが、今回は映画制作の話でやってきました。
いろいろとお話をお聞きしていると、共通の友人知人が見つかりました。
人間は、長い人生を送っているとつながりが生まれることがよくわかります。

それはそれとして、いま、その会社で「看取り」関係の映画を制作中とのことです。
「看取り」は社会の大きな問題になっていくでしょう。
しかし、実際に看取りをした人は、そう多くはないかもしれません。
私は父母と妻の3人を看取りました。
娘たちも同じです。
そういう意味で、私も娘も、死への恐怖や偏見は少ないと思いますが、最近の二世代家族化や病院死の増加の中で、死を実感する機会がない人も多いでしょう。

その看取りに関して、斎藤さんが面白い体験を話してくれました。
あるお寺で、死を迎える最後に、もし3人の人と話すことができるとしたら、誰にどの順序で呼びたいかというワークショップをやったことがあるそうです。
人によって、全く違っていたといいます。
節子は、どうだったでしょうか。
実際には、節子は私と娘2人に看取られましたが、もし自分で選択するとしたらどうだったか。
間違いなく、その3人だったでしょう。
もし一人だったら、それはもちろん私でしょう。
その確信はあります。
私の場合も全く同じです。

しかし、伴侶は必ずしも選ばれないかもしれません。
先日、紹介した岡部医師は、家族ではなく、カール・ベッカーを選びました。
彼岸に旅立つ5日前の、岡部さんとベッカーさんの短い対談は「看取り先生の遺言」(文芸春秋社)に収録されていますが、実にさわやかで、示唆に富んでいます。
その対談のそばに、奥様がいたのではないかと思いますが、伴侶や家族は生活共同者ですから、むしろ選ばれないのかもしれません。
伴侶を選ぶようでは、まだまだ一心同体にはなっていなかったのではないかという気もします。
にもかかわらず、私は最後にはまた節子と話したいと思います。
それは、まだまだ節子と話したいことがたくさんあったからです。
私たちは、お互いにかなり話し合った夫婦だと思いますが、話せば話すほど話したいことは増えていくものです。

とても残念なのは、節子がきちんと話ができるときに、ゆっくりと話す時間を持たなかったことです。
私もそうですが、娘たちもそうです。
節子がもし、私たちに何かを言い残すとしたら、何を言い残したでしょうか。
そのことが、時々、ちょっと気になることがあります。

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