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2013/03/07

■節子への挽歌2007:家族のドキュメンタリーは観られません

節子
3月11日が近づいたため、テレビでは一昨年の大震災にまつわる記録報道が増えています。
そこで話題になるのが、家族の絆や家族の支え合いの話です。
こうした番組を観るのは、とても辛いので、私は意識的にはほとんど観ませんが、どうしても目に入ってきます。
別れの悲しい話もあれば、一緒になって元気になっていく話もあります。
テレビのチャンネルを変えながら、どうしてみんなこういう番組が好きなのだろうと、思います。
取材されている当事者たちは、どんな気持ちなのだろうかと思うこともあります。

喜びも悲しさもシェアするほうがいい、とよく言われますし、私も体験上、そう思います。
しかし、これだけテレビや新聞で取り上げられるところを見ると、どうもそれだけの話ではなさそうです。
もしかしたら、視聴者や読者もまた、他者の悲しさや喜びを積極的にシェアしたがっているのではないかと、気づきました。

人は生来、喜怒哀楽をシェアする生き物なのかもしれません。
歌い、怒り、悲しみ、笑うこと。
そこでは、家族とか縁者とかは無縁なのかもしれません。
もちろん自分とつながりが深いほど、悲しさや喜びは大きいでしょう。
しかし、必ずしも、そうとはいえないような気もします。
まったく知らない人の悲しみに出会っても、自然と涙が出てくることもあれば、つながりの深い縁者でも、涙が出ないこともある。
そこには、その人とのつながりに深さとは別の基準があるような気がします。

他者の悲しさに出会って涙すると、心が洗われるような気になります。
そして、必ずといっていいのですが、その涙は、自分の悲しみにつながっているのです。
他者を悲しみながら、自分を悲しんでいる。
他者を悲しみながら、節子を悲しんでいる。
だからきっと、涙が心を明るくしてくれるのです。

そう思っていても、なかなか東北の家族の話はテレビでは観られないのです。

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