« 2013年3月 | トップページ | 2013年5月 »

2013年4月

2013/04/30

■節子への挽歌2063:私が生き生きと生きてこられた一番の理由

節子
今日はいささかややこしい話を2件、こなしてきました。
私自身には負担だけの案件なのですが、まあそれで喜んでもらえる人がいるのですから、よしとしなければいけません。
お一人からは、最近、小布施にいってきたお土産だと市村さんのところのお酒をもらいました。
私はお酒を飲まないのですが、もらうことも親切のひとつですので、もらってきました。
しかし、話そのものは、あまり前向きの話ではなかったので、疲れました。
そういえば、最近は、何かを創りだすということが少なくなってきてしまいました。
それが疲れの一因かもしれません。

今日は代官山に行っていたのですが、代官山にはおしゃれなレストランやカフェがたくさんあります。
私には縁遠い世界です。
私自身は、仕事をしていた頃は、そうしたお店でご馳走になることはありましたが、最近はほとんどありません。
節子と一緒に行ったことも、若い頃はともかく、私が生き方を変えてからはまずありませんでした。
そうしたお店の前を通ると、ちょっと悔やむ気持ちが起こることがあります。
私自身は、そうしたお店に全くと言っていいほど、興味がありません。
節子も、さほど興味があったとは思えません。
だからと言って、節子が、そういうお店に行きたくなかったわけではないでしょう。
そう思うと、少し罪の意識が生まれるのです。

誰かのための時間とお金を、自分たちに振り向けていたら、私たちはもう少し贅沢な暮らしができたかもしれません。
しかし、それは私の生き方ではありませんでした。

私が、節子と一緒にいて、ともかく安堵できたのは、私の少し変わった考え方を、丸ごとすべて受けいれてくれていたからです。
私は、世間の常識からかなり脱落していると思いますが、節子はむしろそれを応援してくれていました。
人生において、自分のことを心底、理解し共感してくれている人がいるということが、どれほど幸せなことなのか。
そのことが、私が生き生きと生きてこられた、一番の理由だろうと思います。
いまもなお、その幸せの余韻は強く残っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■節子への挽歌2062:空白の時間を埋めるもの

節子
三浦さんからメールが届きました。
節子もよく知っている、オープンサロンの常連だった三浦さんです。
節子を見送った前後の数年は、私にとって夢うつつな時期なのですが、三浦さんに関することも実はあまり記憶がありません。
ただ生活環境が大きく変わったようで、年賀状以外は連絡が途絶えていました。
こんな感じで、つながりが途絶えてしまった人もいますが、その責任はたぶん私にあるのでしょう。
ともかく、私自身が現実にうまく適応できていませんでしたから。

三浦さんは、難病を抱えていました。
にもかかわらず、湯島のサロンにも、またコムケアのフォーラムなどにも、よく足を運んでくれました。
現在は息子さん夫婦とご一緒に暮らしているそうで、生活も落ち着いているようです。
それで、また湯島の集まりにも参加するというメールが届いたのです。
とてもうれしい話です。

オープンサロンの常連との付き合いも最近は途絶えがちです。
サロンと言うのは、ある種の華やいだ雰囲気がないと持続できません。
その意味では、ホストの気が漲っていないといけないのですが、最近の私はそんな状況ではありません。
それに節子がいた頃は、それなりの場づくりをしてくれていましたが、いまは私がただコーヒーを淹れるだけです。
それもだんだん面倒になってきました。
困ったものです。

三浦さんが、またサロンに参加してくれるとすれば、流れが少し変わるかもしれません。
昔の常連にもまた案内を出そうかと思います。
久しぶりに三浦さんにお会いできそうで、うれしいです。
この8年ほどの記憶の空白が、少し埋まりだすかもしれません。

節子
昔のオープンサロンを懐かしがってくれる人は少なくありません。
節子には苦労をかけましたが、少しは役に立っていたのかもしれません。
それ以上に、節子がいなくなった後の私に元気を与えてくれる支えにもなっています。
節子と一緒に10年以上もつづけていて、本当によかったです。
私の生き方を大きく変えたのも、サロンのおかげです。
もっとも、先日のサロンに来てくれた藤原さんからは、私のペイフォワードな生き方を見直したほうがいいと言われました。
さてどうしますか。

今日は、これから出かけます。
いささか迷いながらですが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■節子への挽歌2061:もしかしたら「うつ」?

節子
先日、うつ病を体験し、その体験を踏まえて「うつな人ほど成功する」と言う本を書いた浜田幸一さんが湯島に来ました。
その時にいただいた、その本を昨夜読みました。
そこに書かれている「うつの兆し」にあげられている項目が、この数日の私の状況にかなり重なるのです。
もしかしたら、今の私は、ちょっと「危ない状況」にあるのかもしれません。

どんな項目が当てはまるかというと、

物忘れが多くなる
集中力がなくなる
活字が読めなくなる
身だしなみに無頓着になる
眠れなくなる
涙もろくなる
身体が思うように動かない
微熱が続く
肩が凝る
頭が思い、頭がボーっとする
感情の起伏が激しくなる
浜田さんがあげている18項目中、なんと12項目も該当します。
以前からのものもありますが、実はこの数日、本を読む気が起きないばかりか、友人への簡単なメールさえ、出すのがおっくうなのです。
感情も最近かなり不安定です、
明日は、ある人と人を引き合わせるために、自分の用事をキャンセルして、代官山まで出かける約束をしてしまったのですが、なんでそんな約束をしてしまったのかと後悔しています。
節子がいたら、なんでそこまでやるのと言うかもしれません。
たしかにそうです。
私としてはペイフォワード精神なのですが、どこかでまだ「やってやる」という気持ちが残っているのでしょう。
自分のほうの用事を犠牲にして、逆に身近な人に迷惑をかけてしまったことが悔やまれます。
こうした、判断と感情が過剰に触れることが、最近多いのです。

特に、この数日、いささかの異常さを感じます。
今日は肩凝りもありましたし、まあ、いろいろと当てはまることが多いのです。
いささか危険なのかもしれません。

それにしても、節子がいなくなってからもう時期6年も経とうとしているのに、今頃になって、こうなるとは困ったものです。
注意しないといけません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/04/29

■節子への挽歌2060:大掃除

節子
少し生活周りを整理することにしました。
これまでも何回か試みていますが、いつも挫折しています。
今回は、娘たちも一緒にやってくれていますので、大丈夫でしょう。

先ず庭ですが、娘たちが整理に取り組みだしました。
節子がいた頃と違って、なかなか手入れが行き届かずに、花木にはかなりのダメッジを与えてしまいっていたのです。
節子が大事にしていた山野草も、いまや生き絶え絶えです。
私が担当の水やりをさぼっていたためです。
毎年たくさんの花を咲かせてくれていて、この挽歌にも何回か登場した「ナニワイバラ」も、節子が植えていた鉢のバラが育ってきていますので、地植えのほうは引退してもらうことになりました。
大きくなりすぎたので、トゲがあぶないからです。
一番、大きな木では、ナツメを切ることにしました。
もう幹が3メートルほどにのびてしまったので、切るのが大変ですが、大きくなりすぎてしまいました。
ジュンの工房のところのオレンジの木も、レバノン杉の1本も切ることにしました。
かなり雰囲気が変わるでしょう。

挽歌にも登場したヤマホロシも残念ながら枯れてしまいました。
ヤマホロシは挿木が簡単なので、枯れてしまったヤマホロシからもたくさんの分家ヤマホロシが広がっています。
節子が元気だった頃も、節子がいなくなってからも、挿木用にたくさんの枝分けをいろんな人にさせてもらいました。

玄関周りの花もだいぶ整理しました。
こうやって節子がいた頃の風景は、少しずつ変わっていっているわけです。

室内はまだそうは変わっていません。
まずは私の関係のところを今度こそ本当に整理しだしました。
資料の山などは選別していると廃棄できなくなるので、中身もあまりみることなくまとめて廃棄することにしました。
まだ書籍だけ未練が残りますが、まずは雑誌や資料の山を消化してからです。

連休前半は何かと用事がありましたが、明日から思い切り身辺を整理していこうと思います。
しかし、一番の大仕事は節子が残した菜園です。
手入れに行きそびれていたら、また草だらけになってしまっています。
連休後半は、草取りと種まきです。
節子がいないので一人でやらなければいけません。
気が重いです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■節子への挽歌2059:もう一人の佐藤修さん

節子
東尋坊の茂さんから、よもぎ餅が届きました。
仲間でついたのだそうです。
私にまで送ってもらえるとはうれしい話です。
ところが、それに関連して、いかにも茂さんらしいことが起こったのです。

今朝、メールが届きました。

昨日、シェルターの住人と共に、よもぎ摘みをして、よもぎ餅をつくりました。
佐藤さんの住所録が手元になかったため、NTT案内で「我孫子市の佐藤修」さんの住所をお聞きして発送してしまいました。
ところが、只今間違って送られてきたと「我孫子の別の佐藤修さん」から電話連絡が入りました。
お手数なことを言いますが、取りに行ってくれませんか?
   外出先で、このメールを受けたのですが、帰宅後、先方の佐藤修さんに電話してお伺いいたしました。
自宅から車で30分近くかかるところでした。
不案内のところでしたが、最近はカーナビがあるので、すぐにわかりました。
表札に「佐藤修」とあります。
何かとても奇妙な感じです。
チャイムを押すと、しばらくして、玄関までお2人で出てきてくれました。

お2人とも笑顔いっぱいの、とても柔和なお年寄りでした。
私よりもかなり高齢な老夫婦でした。
とても閑静なところで、いつもはきっとお穏やかなお2人だけの暮らしを楽しんでいるのでしょう。
もしかしたら、今日はちょっとした事件だったのかもしれません。

節子がもしいたら、そこで荷物を開いて、よもぎ餅をおすそ分けし、あるいは上がりこんでお茶でもご馳走になったかもしれません。
まあ、そんなことも受けてくれそうな、気持ちの良さそうな老夫婦でした。
節子は、そういうことが何となく自然にできる人でした。
ほんとは、私もそういうのが好きなのですが、なかなか私だけではできません。
お2人と少しお話をさせてもらうのがせいぜいでした。

久しぶりに「佐藤修」さんにお会いしました。
以前は2年に1人くらい、同姓同名の佐藤修さんに出会っていました。
そういえば、20年ほど前には、佐藤修さんと食事をしたこともありました。
とても不思議な感じでした。
ちなみに、奥様の名前は、慶子さんで、節子ではありませんでした。

帰宅して、よもぎ餅を節子に供えました。
節子は、よもぎ餅が好きでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/04/27

■節子への挽歌2058:愛する人がいると人間は弱くなる

節子
タイトルの言葉は、イギリスのテレビドラマ「シャーロック」で、たしかホームズがワトソンに言った言葉です。
まあ、よくある言葉なので、別にシャーロックを引き合いに出すこともないのですが、昨年、このドラマを観てから、ずっとひっかかっていたのです。

説明するまでもありませんが、愛する人がいるとその人を守らねばなりませんので、その分だけ弱くなるというわけです、
しかしそうでしょうか。
むしろ愛する人がいると人間は強くなるのではないかとも言えます。
この場合も、愛する人を守るために強くなるというわけです。
こう考えると、強くなることと弱くなることとは同じなのかもしれません。

私自身のことでいえば、節子がいなくなってから、ある意味では弱くなり、ある意味では強くなったような気がします。
節子との別れということに比べればそれ以上の悲しみや辛さはありません。
そういう意味では、何が起こっても、それ以上の悪いことは起こりようもありません。
それに物事への執着もなくなりましたので、恐れることなど何もないのです。
だからどんなことも驚かないのです。

その一方で、何をやっても「張り合い」がなくなってしまいました。
だから、「何かをやろう」という強い思いが出てきませんし、「やりとげよう」というような強い執着心は生まれてきません。
さらに言えば、「生き抜こう」などという気も起きませんし、自分を守ろうなどという気も起きないのです。
ですから、ある意味では弱々しくなっています。

しかし、いずれの場合も「人生を投げている」という意味では同じなのかもしれません。
節子がいなくなってから、私の人生の意味はまったく変わってしまいました。
居場所のない、実に宙ぶらりんの感じなのです。

そんなわけで、いまは弱くて強い人生を生きているわけです。
どうも生きにくい人生になってしまいました。
困ったものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■カウンターカルチャーと民主主義

フェイスブックに「アメリカの民主主義は、皮肉なことに1960年代のカウンターカルチャーの興隆を契機に反転し、今では「失われた民主主義の時代」という人もいます」と書いたら、もう少し詳しく説明してほしいといわれたので、ここに書くことにしました。

アメリカ社会が変質したのは1960年代と言われています。
当時は、カウンターカルチャー全盛の時代でした。
このブログでも何回か書きましたが、チャールズ・ライクの「緑色革命」が当時のアメリカの動きを紹介しています。
ライクは、「意識」の革命こそが新しい世界の創造に必要と説き、それを基盤に置いた共同体の設立を提案していました。
同時に、公民権活動などの少数者の権利確立型の動きも活発化していました。
いずれの動きにも、20代だった私は共感しました。
そして、アメリカでの民主主義はさらに前に向かって進化すると思っていました。

しかし、皮肉なことに、そうした動きが、トクヴィルが「アメリカのデモクラシー」で描いた、生活する人が主役の、実にライブな民主主義を変質させていくのです。
このあたりの分析は、アメリカの社会学者のシーダ・スコッチポルの「失われた民主主義」という本に詳しく書かれています。
彼が標榜しているのは、「メンバーシップからマネジメントへ」という流れです。
ちなみに、この本は、5年ほど前に書かれた本ですが、昨今の日本の状況を考えるうえでもとても示唆に富んでいます。
何となく私が感じていたことを整理してもらえたので、私が取り組んでいる活動にも確信が持てました。
これに関しては、いつかまた書きたいと思いますが、今日は、カウンターカルチャーと民主主義のことです。

トクヴィルの時代から1950年ころまでのアメリカの社会の主軸は、草の根市民に根を張るメンバーシップ型の自発的結社でした。
メンバーシップ型の自発的結社への参加を通して、多くのアメリカ人は「自治に関する最良の教育」を学んできたといわれています。
それだけではありません。
それを通して、アメリカの民主主義が育ってきたのです。
スコッチポルが実証していますが、自発的結社は自閉的ではなく、国家につながる形で、国家の代表制ガバナンスに、普通のアメリカ人を架橋していったのです。
こうした構造は、アメリカという国の成り立ちに起因していますが、西部劇(特に1970年代までに制作された西部劇)などを観ると、その始まりの姿がよくわかります。

しかし1960年代に広がった新しい運動は、そうしたメンバーシップ型自発的結社を一気に後退させていきます。
代わりに姿を現したのが、テーマ型の新しい市民運動です。
それを主導したのは若者たちであり、とりわけ知的エリートと言われる人たちでした。
そして、メンバーシップ型の社会活動は、マネジメント型のアドボカシー活動や社会貢献活動へと変化したといわれます。
生活者から専門家、あるいは市民起業家たちに主役の座が移ったのです。
今やアメリカの市民活動組織は会費で成り立つというよりも、外部からの資金で成り立つプロ組織へと変質してしまいました。

長々と書きましたが、実はこれは日本においても展開されている図式です。
私は30年ほど前から、こうした動きに関心を持っていますが、ビジネスの世界のみならず、市民活動の世界でも、お金と「専門性」が力を高め、みんなで一緒に取り組むというコモンズの感覚が希薄になり、テーマが細分化され、気が付いたら「人間の生活」が脇に追いやられてしまっているという状況は、ますます加速されているように思います。

民主主義の話が出てこないといわれそうです。
民主主義は人間一人ひとりが主役だと考えてもいいでしょう。
そして、個々人の生活と国家の政治との距離感が短くなることが、民主主義の進化ではないかと思います。
もしそうならば、1960年代以後のアメリカの動きは、明らかに民主主義の後退です。
スコッチポルは、このままだとアメリカは「民主的市民の国民共同体ではなく、管理者と操作された観客の国」になると懸念しています。
観客は主役ではありません。
さらに、スコッチポルは、最近のボランティア活動は、仲間と「ともにする」ことよりも、他の人の「ためにする」ことに向かっているというのです。
誰かのための行動は、どんなに着飾ろうとも、人と人との関係に上下構造をもたらしますから、私には民主的とは思えません。

私が、昨今のNPOや社会起業家の動きに全幅の信頼を持てず、最近の社会のあり方に違和感があるのは、こうしたことがどうしても気になるためです。
かなり舌足らずですが、私には「コモンズの回復」に向けての、ゆるやかなメンバーシップが大切なように思えます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/04/25

■節子への挽歌2057:精神安定剤の節子

節子
何かとばたばたしていて、また挽歌がたまってしまいました。
挽歌がたまるということは、生活のリズムが乱れていると言うことでもあります。
たしかにかなり乱れています。
それに、最近は気分がいささか不安定です。
歳を重ねることで、精神的な安定考えられるのではないかと思っていたのですが、どうもそうではなく、むしろ感情の起伏や気持ちの高揚感の上下振動は激しくなっているようです。
おそらくこれは、節子がいないことと無縁ではなさそうです。

自分を律するという言葉がありますが、これはかなり難しいことです。
私にはできそうもありません。
もともと「わがまま」でしたが、節子がいた時以上に、「わがまま」になっています。
しかし、実際にはそう簡単には「わがまま」にならないため、精神が安定しないわけです。
考えてみると、節子は私にとって、精神安定剤だったのかもしれません。

生活リズムが回復したと思った矢先から、また壊れていく。
実に困ったものです。
節子がいた頃は、どんなに「わがまま」にしても、基本的には「わがまま」に事が進んでいたのですが。

明日からまた挽歌を書き出します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/04/24

■水俣のしらすは美味しいです

水俣病認定のことを書いたので、思い出して、関連記事を書きます。
いま水俣の海には、サンゴが復活しています。
それほどきれいになったわけです。

先日、水俣出身の人と会いました。
なんと水俣病に縁のある知人の友人でした。
それで水俣病の話になりました。
その人が、いまも水俣はイメージが悪いままだといいます。
しかし、もう水俣病をきちんと知っている人はいないでしょうというと、その人は、忘れられかけた時に、テレビが水俣病の悲惨な映像を報道するのです、というのです。
テレビは、時間を超えていますので、そのイメージがいまの水俣にかぶさってくるというわけです。
いまでも水俣の海産物は嫌われるというのです。

もう10年以上前ですが、水俣の杉本栄子さんの作業場を訪問し、杉本さんからシラスを分けてもらいました。
とても美味しいシラスなので、おすそ分けしたいと思いました。
ところが、水俣のシラスはちょっと恐ろしいと素直に言ってくれた人がいるのです。
いまもなお水俣の海産物は、危険だと思われているのか、驚きました。
その事態は、そう変わっていないと、その人は言うのです。
水俣の人が言うのですから、事実でしょう。
彼は、なんで10年ごとに水俣の悲惨な映像を流すのかといいます。
水俣を忘れてはいけないというのであれば、映像の流し方や編集の仕方をもっと工夫すべきです。
テレビ映像の制作者には慎重に考えてほしいことです。

悲惨な映像は視聴者の目を引きます。
しかし、大切なのは、そこからです。
悲惨さを売り物にした安直な映像づくりは止めてほしいと思います。
いまの水俣をもっと伝えることのほうがメッセージになるはずです。
それは3・11の関してもそうです。
同時に、視聴する側の私たちも、映像に振り回されるのではなく、映像の向こうにあるメッセージを読み解きたいと思います。

水俣のシラスは、とても美味しいです。
もう一度、食べたいと思いますが、なかなか手に入りません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■水俣病認定対応から見える原発事故被災者の救済

数日前にこんな記事が新聞に出ていました。

熊本県水俣市の溝口チエさんの遺族が県を相手に、水俣病患者としての認定を求めた訴訟の上告審判決で、最高裁第三小法廷(寺田逸郎裁判長)は16日、県の上告を棄却し、原告勝訴とした。2012年2月、女性を患者と認めなかった県の処分を取り消し、認定するよう県に義務付けた二審・福岡高裁判決が確定した。
溝口チエさんが手足などに感覚障害があると診断されて、県に水俣病認定の申請を行ったのは1974年です。
それから40年近い月日が経っています。
チエさんは1977年に亡くなりました。

報道でご存知の方も多いと思いますが、水俣病の患者認定は、1977年に国が定めた基準に基づいて行われています。
複数の症状が組み合わさっていることが条件とされているため、「本来認定されるべき人をも切り捨てている」との批判が多く、認定されなかった人による訴訟が繰り返されてきました。
この判決は、その一つです。
チエさんの息子さんは判決が出たあと、「(認定は)私だけの問題じゃない。後に続く人に少しでもプラスになってほしい」「基準の見直しは当然。国は姿勢や考え方を変えるべきだ」と話しています。
しかし、残念ながら、環境省は水俣病認定基準の見直しを拒否しました。
判決を、基準を否定しているわけではない、運営で対応できると受け止めたのです。
西日本新聞は、社説で、「自分に都合のいいように解釈し、物事を進めようとする。まさに「我田引水」のような国の反応ではないか」と指摘しています。
この環境省の姿勢には、統治の本質がうかがえます。
西日本新聞の社説は、こうも書いています。

行政が認める患者と、司法が認める患者。本来、「二つの水俣病」があっていいわけがない。
今年は、水俣病の公式確認から57年目。5月1日には水俣市で慰霊式が開かれ、石原環境相も出席の予定だそうです。
そこでどんなやり取りが行われるか。
そこに、原発事故保障の未来が垣間見えるような気がします。

ちなみに、溝口さんは判決後、記者団に「どうしてこんなに長引いたのか説明してほしい」と話しています。
ほんとうにそうです。
当事者と行政や司法などの統治者との時間間隔はまったく違うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/04/23

■向こうから見た風景

ボストンの爆弾爆破事件は痛ましい事件です。
事件を起こした兄弟には同情の余地はありません。
と、頭では思うのですが、どこかにひっかかるものがあります。
なぜこうした事件が繰り返し起こるのか。

北朝鮮の威嚇外交には毎度の事ながら怒りを感じます。
国民を飢餓状況に置きながら、巨額なお金を使っての国家行事にも呆れます。
北朝鮮は存在そのものが危険だ。
と、頭では思うのですが、これもどこかでひっかかるものがあります。
なぜこうした姿勢を彼らは続けるのか。いや、続けられるのか。

尖閣諸島問題に対する中国の外交姿勢には納得できません。
船舶や、時には航空機もつかっての領海侵犯は許せません。
中国は不気味な国だ。
と、頭では思うのですが、やはりどこかにひっかかるものがあります。
なぜ彼らはこうも強硬にでてくるのでしょうか。

同じ事件も、こちらから見るか、あちらから見るかで、まったく違ってきます。
それは当然のことです。
あるいは、見える範囲によっても、まったく違うものになります。
いずれの側も見えるような、そうした場所があればいいのですが、それは無理かもしれません。
昔は、お天道様や神様がいましたが、いまはもうどこにもいません。

ではどうするか。
想像力を発揮するしかありません。
想像力を発揮するのは、そう難しいことではありません。
思い切り素直になればいい。
兄弟には、それをしなければならなかった理由があった。
金正恩さんにはそうしなければいけない理由がある。
中国の人たちにはそうするのが当然だと思う理由があった。
そこから考え出すと、少しだけ頭が冷やせます。

これはすべてのことに当てはまります。
まずは相手の側に立って考えてみる。
そうすると問題の本質が見えてくることも少なくありません。
それによって、怒るべき相手が違っていることに気づくこともあります。
特に、原発事故に関しては、そうです。

違った風景は、人生を豊かにします。
しかし、時に人を不幸にします。
他人のせいにはできなくなるからです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■誰を犠牲にして経済成長するのですか

今日は午前中、自宅にいたので国会中継を時々見ていました。
相変わらずの「成長戦略」議論が続いています。
みんなどうして懲りないのか、実に不思議です。
たぶんだれもが、自分は成長の恩恵を受けると思っているのでしょう。
安倍首相は、「ともかくパイを大きくしないといけない」と30年前のような発言をしていました。
弱い人たちの、大切な小さなパイを奪ってつくったパイなど、美味しくはないでしょうに。

誰のパイを奪うのか。
パイを奪われる存在にもなりたくはありませんが、しかし、それ以上に、パイを奪う存在にはなりたくありません。
海外からのパイも、もうこれ以上、奪う経済にはしてほしくありません。

経済成長しないと社会は停滞していくという人は多いです。
たしかに「成長」は重要です。
しかし、成長の中身は、経済規模が拡大するだけではありません。
それに、今のような形での「経済成長」が社会の軸になったのは、そう古い話ではないように思います。

この50年、日本は経済は大きく成長しました。
しかし、人間の生き方という意味での社会のあり方はどうでしょうか。
果たして「成長」したといえるでしょうか。
社会のあり方としては、少なくとも、私の好みではなくなってきました。
精神的におかしくなってきている人が増え、自殺者も増え、貧しささえも増えている。
私には、私たちが、あるいは日本の社会が「成長」しているなどとはとても思えません。
誰かから、何かを奪っていることは、間違いないでしょう。

いま国会で議論している「成長戦略」は、私には、ますます社会を壊していく戦略にしか見えません。
人にとって大切な「成長」は、決して収入の額では決まりません。
にもかかわらず、なぜみんな、社会の成長を経済で考えるのでしょうか。
私のどこかが、狂っているのかもしれませんが、経済成長の意味を問い直す時期に来ているように思います。
誰かから奪う「成長」ではない「成長」を考えることはできないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■水産業復興特区とショックドクトリン

東北復興庁は、今日付けで、宮城県が申請していた「水産業復興特区」を認定しました。
漁業への企業参入を促すために、漁協に優先的に与えられてきた漁業権を開放して民間からの投資を呼び込み、東日本大震災からの復興につなげるのがねらいだそうです。
こういう発想には大きな違和感があります。
「復興推進の主役」は企業でないといけないのでしょうか。
県の漁協は強く反発しているそうですが、なぜ反発しているのでしょうか。
漁業の主役が反対しているのに、それを特区として実現してしまう。
なにやら「ショック・ドクトリン」を思い出してしまいます。

前にも書きましたが、「真の変革は、危機状況によってのみ可能となる」という考えがあります。
たしかに、それは半面の真理ですが、危険な思想でもあります。
ジャーナリストのナオミ・クラインは、これを「ショック・ドクトリン」と呼びました。

有名な話では、2004年のスマトラ沖大地震の後に、津波で流されてしまったことを契機にして、スリランカの沿岸地に大資本による富裕層向けリゾート開発が一挙に推し進められたという事例があります。
それまでも観光地として狙われていたのですが、多くの零細漁民が生活しており、また土地の所有関係も複雑だったため、開発が実現できなかったのだそうです。
まさに、「惨事便乗型資本主義」です。
こうしたことが、東北被災地で起こっていなければと思いますが、すでにそうした動きは広がっているという人もいます。
新聞を読んでいるだけでも、そうではないかと危惧する事例はたくさんあります。
そうした視点で、しっかりと報道するマスコミは、日本の現状では存在しないのが残念です。

宮城県の今回の特区は、いろんな意味で私にはとても違和感があります。
現場でしっかりと働いている漁民のみなさんが主役にならずに、いつの間にかみんな「雇われ漁師」になる歴史が始まったような気がします。
そうではない「ささえあいの新しい漁業」の姿だ、一時、見えてきたような気がしますが、やはり大きな流れには勝てないようです。

アベノミクスが、日本を壊していくことは、ほぼ間違いないでしょう。
ますます住みにくくなりそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/04/20

■節子への挽歌2056:死への距離感

節子
鈴木さんがまた読み直しているというので、ついつい影響を受けて、遠藤誠さんの『道元「禅」とは何か 正法眼蔵随聞記入門』の第6巻を読んでみました。
遠藤さんの絶筆になった本で、最後の最後まで、淡々と書いています。
まさに途中で、ぷつんと切れている感じです。
絶筆後は、遠藤さんの師といわれる紀野一義さんが、遠藤さんの遺言を受けて、補筆しています。

通読して、死に直面している人のすごさを感じました。
紀野さんという人も死に直面した体験を持つ人ですが、死に対する距離感が明らかに違うのです。
というよりも、第6巻を書いている頃の遠藤さんは、もしかしたら、すでに彼岸と此岸を往来しているようにさえ感じます。
つまり、すでに死を克服しているわけです。
遠藤さんにあっては、すでに「死」が死んでいる。
そんな気がしました。

そして、なぜか節子を思い出しました。
節子は、たぶん息を引き取る、少なくとも半月前には、死を超えていた。
彼岸に行っていたのです。
それを私は全く気づかなかった。
どうしようもない愚か者です。
節子よりは賢いと自負していましたが、とんでもなく愚かだったのです。
死を超えると、人はやさしく穏やかになる、
彼岸とは、人のいのちをやさしくしてくれる、何かを持っているのでしょう。
それがわかれば、安堵して死を超えられます、
いや、生を超えるというべきでしょうか。
私は、それに気づかなかったのです。

節子は、たぶん、道元などは読まないでしょう。
節子が元気だったら、私もまた、道元は読まなかったでしょう。
でも今回は、2日で読んでしまいました。
面白かったので、遠藤さんの残りの全巻も読むことにしました。
彼岸に行ったら、節子にお説教できそうです。
まあ、節子はそんなお説教など聴いてはくれないでしょうが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/04/19

■節子への挽歌2055:起は時節到来なり

節子
久しぶりに國分さんに会いました。
國分さんが最初に湯島に来た時には、たしか南ア帰りで、次は渡米する時でした。
そのため、回数的にはあまり交流はありませんでしたが、かなり印象的な出会いでした。
節子も私も、どこか強く心に残ることがありました。

渡米後は交流がなくなりました。
そして、その間に節子は発病しました。
発病して3年目、その國分さんが渡米後にくれた手紙がなぜか出てきました。
節子が、國分さんはその後、どうしているかなと話したので、ネットで探してみました。
最近はネット検索という便利なものがあるので、社会的な活動をしている人はネットで見つけやすいのです。
そして國分さんと連絡が取れ、湯島で節子と私と國分さんとで会いました。
その半年後に、節子の胃がんは再発してしまったのです。
以来、また交流が途絶えていました。

その國分さんが湯島に来ました。
もう少し基盤がしっかりしてから報告に来ようと思っていたそうですが、國分さんの方向はかなり明確になっているようです。
スピリチュアルなものも、また解き放たれてきているようです。
話す事が山のようにあったからでしょう。
3時間があっという間でした。

國分さんは、今は、マッサージセラピストとして活動しています。
もう10年早かったら、節子も元気になったかもしれません。
最近、そんなことを思うことがたくさんあります。
時代がもう少し早く進んでいたら、節子の人生も変わっていたかもしれません。
しかし、それこそが貧しい発想なのでしょう。
道元禅師がいうように、「起は時節到来なり」なのです。

節子
遅まきながら、道元の入門書を読み出しました。
以前と違って、なぜかすんなりと心身に入っていきます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/04/18

■節子への挽歌2054:だましあうことを喜び合える関係

節子
先日、宮部さんにも話したのですが、どうも私はみんなにだまされているのではないかと言う気がしてきています。
節子がいつも冗談で私に言っていたことですが、まんざらこれは冗談ではないのかもしれません。
まあ、だからと言って、だまされていることが悪いわけではありません。
だまされるのも、大切なことですから。
しかし、最近は節子がいないせいか、精神的な余裕がなくなってきたようで、だまされるのも大切なことだなどと開き直ってばかりもいられなくなってきました。
心に余裕がなくなったということでしょうが、時にむなしくなることもあります。
だまされることを一緒に喜べる人がいないからです。

夫婦は、もしかしたら「だましあうことを喜び合える関係」なのかもしれない、と最近、思えるようになってきました。
そして、人生において、「だまし・だまされる」ことは、結構大事なことなのではないかとも思い出しました。
所詮、この世は「だましあい」で成り立っているのかもしれません。
こういう風に考えてしまうのは、少し疲れているからかもしれません。

夫婦は「だましあうことを喜び合える関係」と言いましたが、お互いに相手をだましているだけではありません。
自らをもだまし、関係をもだましている。
しかし、それがお互いにとても心地よく、安堵できるのです。
だから、「だます」という言葉ではなく、「信頼」という言葉のほうが適切かもしれません。
「だます」と「信頼」は正反対だろうと思うかもしれませんが、この言葉はほとんど同義語のような気もします。
「だます」とは「信頼」の上に成り立ち、また「だます」とは「信頼」を勝ち取ることだからです。
ラブソングで、よく「一生だましていてほしかった」というフレーズが使われますが、まさに「だまし」と「信頼」は辞書的な意味においては正反対でも、人生においては「同義」なのかもしれません。

しかし、信頼してだましてもらえる節子や、信頼してだませる節子がいないために、どうも最近は、私の中で、「だます」ということが悪いイメージになってきているように思います。
それでは世界は狭くなるかもしれません。
ちょっと残念です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/04/17

■節子への挽歌2053:言語行為論

節子
一昨日湯島に来た濱田さんの話から、もうひとつ、印象的だったことがあります。
それは、うつ病の人に「がんばれ」というのはよくないといわれているが、あれは間違いです、と濱田さんが言い切ったことです。
当事者が言うのですから、これは否定しようがありません。
私も共感します。
専門家や医師やカウンセラーの言葉は、一般論でしかありませんから、正しい時もあれば正しくない時もある。
にもかかわらず、専門家は「正しい」という姿勢で、上から目線でものを言います。
そもそも、人が生きることに関しての「専門家」などは、本人以外にいるはずもないのですが。

言語行為論という知の分野があります。
一言で言えば、人が話すことで何を行為しているかを考える議論です。
たとえば、「今度の日曜日は用事がある?」と誰かにいう時、別にその人に用事があるかどうかに関心があるわけではありません。
その言葉が意味することは、今度の日曜日に用事がなければ、何かを頼むとか何かに誘うとかということです。
つまり「話した言葉の内容」と「話すという行為の意味」とは、別なのです。
そうしたことを踏まえると、大切なのは、「がんばれ」という言葉ではなく、その言葉を通しての行為なのです。
つまり、ある時には「がんばれ」が効果を持ち、ある時には「がんばれ」が逆効果を持つわけです。

愛する人を失って、悲しみの奈落へと落とされている人にとって、実は「言葉」よりも「行為」が鋭く響いてきます。
「時間が癒す」とか「奥様が望んでいませんよ」などと言う言葉は、ただただ白々しいのです。
しかし、なかには同じ言葉でも、違った行為の意味が伝わってくることがあります。
いいかえれば、そういう時期には、感覚が鋭くなっているので、言葉の奥にある心を実感できるのです。
恐ろしいことですが、その人の本性までが見えてきます。
それは決して幸せなことではありません。
注意しないとどんどん性格が悪くなり、人嫌いにもなりかねません。
事実、私がそうでした。
しかし、逆に人に優しくなり、寛容にもなれます。

これも、節子との別れで学んだことです。
言葉と行為が一致する関係にあった節子がいなくなったことは、私には大きな空白ができたような気がします。
節子との会話が、とても懐かしいです。
もうあんな心身に響きあう会話はできないのでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/04/16

■節子への挽歌2052:「わかりあえない」とわかった時に、はじめて「わかりあえる」

節子
昨日、湯島に「うつ」を治した人が2人、来てくれました。
ある人の紹介ですが、お2人とも初対面の方です。
おひとりは「うつ」になって3か月入院、そこであることに気づいて回復し、その時の体験を本にされました。
その本を読んで、元気づけられたのがもう一人の人です。
このブログでも紹介したレネさんの紹介で、私はお2人を知りました。
お2人とも、自らが「うつ」だったことを公言しているので、お名前を出してもいいでしょう。
濱田さんと斎藤さんです。

濱田さんが言いました。
「専門家」はいろんなことを言うけれど、当事者にとっては「わかってないね」という事が多い。
斎藤さんが大きく頷きました。
私も、そうだそうだと思いました。

私は、「うつ」という診断をもらったことはありませんが、「うつ状況」はたぶん体験しています。
節子を見送った後にも、そんな状況はあったような気もします。
そんな時に、誰かが私のことを心配して声をかけてくれても、素直には心に入らないばかりか、逆に反発を感ずることのほうが多かった気がします。
お気遣いはわかるけれど、逆効果ですよ」と言いたくなることも少なくありませんでした。

福祉の世界にこの10年以上、ささやかに関わってきて、思うことは、人はそれぞれにまったく違うということです。
にもかかわらず、多くの人は杓子定規に考えがちです。
当事者体験がなければ、それは当然のことかもしれませんが、「相手の立場にはなれずに、相手のことをわかることなどできない」という認識が必要だと思うようになっています。
ましてや、相手のためになにかしてやろうなどという発想は捨てなければいけません。
その人との関係において自分には何ができるか、を考えるようにしています。
このふたつは似ていますが、私にとっては全く正反対のものです。
視点が相手という客体にあるのではなく、自分という主体にあるからです。

ややこしい話になってしまいましたが、濱田さんと斎藤さんと話していて、人がわかりあうということの難しさを改めて考えました。
もしかしたら、「わかりあえない」とわかった時に、はじめて「わかりあえる」のかもしれません。
そして、そういう意味で「わかりあえる」と、相手と自分の境界がなくなり、「つくりあう」ことによって、わかろうとしなくてもわかりあえる関係になっていくのです。
ますますややこしくなってしまいました。
でもきっと、わかってもらえる人にはわかってもらえるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/04/15

■節子への挽歌2051:節子がいないと怠惰になります

節子
昨日は若い友人がやっている農場を見にいきました。
農業に関しては、節子と結婚したおかげで、ある意味での親近感がもて、また学びもできました。
もしいまも節子がいたら、きっと一緒にできることはいろいろとあったでしょう。
最近、改めて、節子がいたら一緒に取り組めるのにというプロジェクトが増えているような気がします。
一緒に、というよりも、いろいろとアドバイスをもらえるのにといったほうが正しいかもしれません。
わが家の家庭農園も、節子がいればこそ、でした。

家庭農園も草が広がりだしていますが、まだ作業を始めていません。
一人だとどうも行く気になれません。
そろそろ手入れを始めないと、また昨年のように、草刈りで1年が過ぎてしまいます。
そうならないように、と、畑に蒔く花の種子も買ってきたのですが、すぐ近くとはいえ、出かけるのがおっくうなのです。

これは何も農作業に限ったことではありません。
私の場合、一人だとどうしても怠惰な方向に行ってしまいます。
節子に依存した暮らしを40年も続けてきたせいかもしれません。
節子はいつも付き合ってくれましたし、時には私を追い立てました。
その節子がいないと、今日はやめて明日にしようと、ついつい思ってしまうわけです。

人は一人では怠惰になるものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■ペイフォワードと恩送り、そして未来への配慮

このブログでも書いたことがありますが、レネ・ダイグナンさんの制作した映画「自殺者1万人を救う戦い」のDVDをペイフォワード方式で広げていこうと呼びかけたところ、今日までにほぼ100枚のDVDが私から出て行きました。
その先にはそれを上回る数のDVDが生まれ、動いているようです。
なかには100枚、複製してくれて配布してくれた人もいます。

ペイフォワードは10年ほど前の映画で知った言葉ですが、うれしい気持ちを先に送っていくということです
DVDを送らせてもらった3人の人から、日本にも「恩送り」という言葉や文化があると教わりました。

ウィキペディアで調べてみると、次のような説明がありました。

恩送り(おんおくり)とは、誰かから受けた恩を、直接その人に返すのではなく、別の人に送ること。
「恩送り」では、親切をしてくれた当人へ親切を返そうにも適切な方法が無い場合に第三者へと恩を「送る」。恩を返す相手が限定されず、比較的短い期間で善意を具体化することができるとしている。 社会に正の連鎖が起きる。
江戸時代では恩送りは普通にあったと井上ひさしは述べている。
ペイフォワードは日本の文化でもあったのです。
そう思いながら、どこかでこういう文章を読んだことがあるなと気がつきました。
いろいろと探していましたが、見つかりませんでした。
ところが昨日、やっと思い出しました。
ドイツの哲学者イマヌエル・カントでした。
彼は「世界市民という視点からみた普遍史の理念」という論文で次のようなことを書いています。
奇妙なことがある。その一つは、一つの世代は苦労の多い仕事に従事し、次の世代のための土台を用意し、次の世代はこの土台の上に、自然の意図する建物を構築できるかのようにみえるのである。もう一つは、この建物に住むという幸福を享受するのは、ずっと後の世代になってからであり、それまでの幾世代もの人々は、その意図はないとしても、この計画を進めるために働き続けるだけで、自分たちが準備した幸福のかけらも享受できないことである。これは不可解な謎かもしれないが、次のことを考えると、必然的なものであることが理解できよう。すなわち動物の一つの種である人類が理性をそなえていることによって、個々の成員としての人々はだれもが死ぬが、一つの種としての人類そのものは不滅であり、みずからの素質を完全に発達させる域にまで到達することができるのである。
この本を思い出したのは、1年前に読んだ大澤真幸さんの「夢よりも深い覚醒へ」を昨日、再読したおかげです。
大澤さんはカントを引きながら、こう書いています。
人は、しばしば、その成果として得られる幸福を享受できるのがずっと後世の世代であって、自分自身ではないことがわかっているような骨の折れる仕事にも、営々と従事する。これは不思議なことではないか
我々は、過去の世代に対する負債があるのだが、それを過去の世代に返さずに済んでいる。その過去の世代への負債の感覚が、「死者の遺志を受け継がなければ」という義務感のベースになっている。
そのために、人間には、未来の他者へと配慮を向けてしまう本来的な性向があるのではないか、と大澤さんは言うのです。

ペイフォワードは、そもそも人間の本性の一つだったのです。
そこに戻れば、みんなが気持ちよく暮らせる社会に向かうでしょう。
残念ながら、どこかでその「正の連鎖」が反転させられてしまっているような気がしますが、まずは私一人からでも本性に沿った生き方をしようと思います。
きっとますます生きやすくなっていくでしょう。
みなさんもご一緒しませんか

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/04/13

■節子への挽歌2050:長い目覚め

節子
ここしばらく夜中にしっかりと目覚めることはなくなっていたのですが、昨夜は2時前に目が覚めてしまいました。
昨日少し気になることが発生し、予感はしていたのですが、予感するとだいたいそれが実現します。
目覚めた時に、長い目覚めになりそうだと思ったために、まさにそうなってしまい、2時間以上、目覚めていました。

真夜中に目が覚めてしまうと考えることしかできません。
そのためますます頭が冴えていきます。
そのうちに、ある本のタイトルを思い出しました。
「夢よりも深い覚醒へ」
大澤真幸さんの岩波新書ですが、最近、大澤さんとエコノミストの水野さんの対談の本を読んでいたせいかもしれません。
同書の副題は「3・11後の哲学」です。
3・11という破局的な悲劇を体験したことを踏まえて、圧倒的な破局を内に秘めた社会のあり方を、大澤さんは思考しています。
ちなみに、「夢よりも深い覚醒」は大澤さんの師でもある見田宗介さんの言葉だそうです。
大澤さんは、その本のあとがきにこう書いています。

3・11の出来事は、われわれの日常の現実を切り裂く(悪)夢のように体験された。その夢から現実へと覚醒するのではなく、夢により深く内在するようにして覚醒しなくてはならない。

比較するのはいささか気後れするのですが、節子との別れは、私にとっては「圧倒的な破局」であり、「常態的な破局」でした。
現実というよりも、まさに「覚めてほしい夢」といった感じです。
そうであるならば、個人においてもまた、「夢よりも深い覚醒」があるのではないかと、奇妙に「覚醒」という言葉が迫ってきたのです。

節子を見送った後、たしかにいろいろな「気づき」があり、生き方も変わりました。
何よりも変わったのは、世界の風景です。
よく言えば「時空的に広がり」、悪く言えば「色彩がなくなった」のです。
しかし、果たして、本当の意味で生き方が変わったのかどうか。
それはなんともいえません。反省すべきことはたくさんあります。
大澤さんの本を読んだのはもう1年以上前ですが、もう一度、読み直してみようと思います。
まあ、次元が違うので、つながらないかもしれませんが、私の生き方からすればつながっているはずです。

それはともかく、今日は寝不足で、頭がふらふらします。
天気がいいので、荒れ放題にしていた庭の池の掃除をしようと思っていましたが、水をすべてかき出したところで、腰が痛くなって放棄しました。
掃除といいながら、その前段階の、思い切り散らかした段階で、掃除を止めてしまうことは、私のよくやることなのです。
節子はその後片付けをしてくれましたが、もう後片付けをやってくれる節子はいません。
どうやら、私の生き方は、あんまり変わっていないようです。
まあ後片付けは明日にしましょう。
腰を痛めてはいけません。
身心の声には素直になりましょう。
覚醒も大事ですが、素直さも大事です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/04/12

■世の中を変えるためにできること

ホームページに書いたのですが、私は最近、邪馬台国畿内説に考えを変えてしまいました。
変えた後で、ちょっと気になって、安本美典さんの「大崩壊「邪馬台国畿内説」」を読もうと思い、図書館から借りてきました。
はじめにに、興味深い指摘がありました。
邪馬台国の所在地とは関係ない話ですが。
引用させてもらいます。

なんだか、「邪馬台因=畿内説村」の論理は、「原子力村」の論理に似てきているように思える。あなたは、自説の根拠をほんとうに自分の眼や耳で、確かめてみましたか?グループ内の、規格化された考え方にすがっているだけではないですか?
(中略)
官や、学や、マスコミなど、一見巨大ともみえる組織がつくりだした蜃気楼のような、夢のような不確実な情報に、乗ってしまっていることはありませんか?一部の人たちが国家などから、金をうけとるのに都合のよい、ということでつくりだした情報に、のっていることはありませんか?
まさか邪馬台国関係の本で原発が出てくるとは思ってもいませんでした。
安本さんは続けます。
外部情報を遮断し、その世界内だけの情報だけをうけいれていると、外部からみて、いかに奇妙な、事実にもとづかない情報でも、奇妙とは、思えなくなってくるものです。諸説を、比較し、考えてみることこそが、重要です。
(中略)
外部情報はうけいれず、自説に都合のよい情報だけをうけいれて行く。このようにして、グループ内の多数意見とはあっている。しかし、客観的事実とはあっていない。「事実」が、提出されていても、それは単なる「意見」であると解釈してしまう。そのようなことになりがちなのです。
とても共感できます。
原子力関係の仕事をしている知人から、まさに同じような状況の話を聞いたことがあります。
彼自身は、そうならないように、さまざまな意見を持っている人たちの場に顔を出すようにしているそうです。

さてどうするか。安本さんはこう言います。

あなたにも、できることがあります。あなたが、自分でしらべ、考え、確認した情報を、インターネットででも、発しつづけましょう。そのようなことが、すこしずつ、世のなかを変えて行くと思います。それが、この本を書いた動機です。
とても納得できます。
現場を直接見て、自分で体験し考えたことを、自分で発信していくことが、大事になってきました。
できることは、しなければいけません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■節子への挽歌2049:「15年前に妻を見送ってからずっと外食だよ」

節子
昨日、湯島に大学時代の友人の大川さんがやってきました。
社会的に大活躍している弁護士です。
大阪に帰るというので、食事をしました。

私のホームページに、彼の著書を何冊か紹介をしていますが、産業廃棄物問題、司法改革、医療過誤訴訟と、およそ収入にはならないような活動に取り組んできています。
卒業後、交流が途絶えていて、再会したのは6年ほど前です。
彼は日弁連の事務総長として、多忙だった頃です。
2人だけでゆっくり話したのは初めてです。

私への最初の質問は、食事はどうしているのか、でした。
同居の娘が作ってくれていると答えたら、彼は「私はずっと外食だ」と言いました。
私は知らなかったのですが、彼は15年ほど前に奥様を白血病で亡くされていました。
それから彼はずっと外食なのだそうです。

15年間、外食。
なぜか私は感激しました。
私は娘から、たまには料理をしたらと言われていますが、なやまずにその申し出は拒否しようと思いました。
自分で調理するのは、やはり私らしくありません。
ぶれてはいけません。
外食もまた私らしくないのが問題ですが、まあ調理のほうが、より私らしくないということにしました。

大川さんとは久しぶりにゆっくりといろいろなことを話しました。
私の弁護士嫌いが少し緩和されました。
彼の法律事務所のメンバーは、それぞれに社会的活動をしているようです。
今度、大阪に行ったらぜひ訪問しようと思います。

昨日は、ほかにも農業と食文化に新しい風を起こそうとして生き方を変えようとしている人とすでに農業に取り組んでいる若者とをお引き合わせしました。
わくわくするような話が飛び交いました。
一昨日、一念発起して、少し前向きに動き出した途端に、世界が変わりだした気がします。

自分が動けば、世界も動き出します。
また少し前に進めそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/04/11

■番外編:時評と挽歌をつなぐもの

昨日と今朝、時評と挽歌に同じ記事を掲載しました。
このブログは、時評編と挽歌編から構成される、いささか奇妙なブログです。
私にとっては、そのことはとても意味があるのですが、まあかなり内容の違うものが混在しています。
しかし、両者が重なることもあります。
それは「生き方」に関するものです。

時評編には「生き方の話」というカテゴリーがあります。
私は、一人称自動詞で語ることを大切にしていますので、自分の生き方を起点にして書いているつもりです。
一方、挽歌のほうは、思い切り私の生き方につながっています。
妻を偲ぶのが挽歌でしょうが、5年も続けていると、その内容はかなり変質してきています。
妻を見送ってから、生きる意味や生き方について考えることが多くなり、挽歌もまた生き方への気づきのような内容になってきています。

昨日今日と時評と挽歌に書いた記事のキーワードは「未来の他者」です。
これは大澤真幸さんの言葉ですが、まさに生き方に関わるものです。
生き方というよりも、生きている世界といってもいいでしょう。
その世界が、どのくらい「いま、ここ」という現実の生きる場を超えられるかが、大切なのだろうと思います。
みんなの世界が大きくなれば、つまらない小競り合いや対立はなくなっていきます。

たとえば、ごみの焼却場を巡って日野市と小金井市がもめています。
小金井市の生活ごみの焼却を日野市に頼んだことが問題になっています。
他の自治体のごみまでなんで引き受けるのかという話です。
しかし、日野市と小金井市が合併したらどうなるのでしょうか。

年金を巡って世代間戦争などという話もあります。
時間的にも空間的にも切り分けられると対立が発生します。
ご先祖様と子孫たちというように、自らとのつながりが確信できれば、その対立は緩和されるでしょう。

いまの時代の不幸は、地域社会の空間的な横のつながりも、家庭を軸にした時間軸での縦のつながりも、希薄になってきていることです。
希薄というよりも、むしろつながりが切られている。
つながりを切ることで、産業は拡大し、統治もしやすくなるからです。
しかし、人は個人で生きているわけではない。
横にも縦にもつながって、支えあうのが人間です。
その原点が失われてしまってきているわけです。
それが自殺を多発させ、精神障害を起こし、格差を拡大しているわけです。
もし顔の見える付き合いをしていたら、年収1億円と200万円の格差など起こりようがありません。
たとえ生じても、1億円の人は200万円の人に支援をしたくなるでしょう。
それにお互いに知り合ったら、どちらが豊かで幸せかは一概には言えなくなるでしょう。
しかし、そんなことをしていたら、経済は成長できず、オリンピックで金メダルも取れなくなる。
経済成長に価値をおかず、金メダルなどにも価値を感じない私のような人は、例外でしょうから、それではみんな喜ばないのでしょう。
だから、世界を広げるなどというのは、あんまり共感を得られないのです。

「未来の他者」は二重の意味で、私とは切り離されています。
現在ではなく、しかも到来が不確実な「未来」とどこかよそよそしい感じのする「他者」という、2つの要素が距離感を広げてしまっています。
「未来の他者」のことを考えていくと、そんなことにも気づいていきます。
そして「彼岸の他者」ということにまで思いが行きます。
「彼岸」と「未来」は、どちらが身近でしょうか。

未来を語る時評と彼岸を語る挽歌とは、こうして私のなかではつながっていうるのです。
しかし、読んでくださっている人には、そんなつながりは実感できないでしょうね。
ただ、いずれもの根底に「大きな愛」があることを感じてもらえるとうれしいです。
口汚くののしっているような時評の記事でさえ、書いているときの私には、愛が書くことへのモチベーションになっているのです。
それに、今の私には、「未来」も「他者」も、そして「彼岸」さえも、「いま。ここ」とつながっているのです。

そんなわけで、もうしばらく、このスタイルを続けようと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■節子への挽歌2048:未来の他者の存在

節子
昨日、時評編に書いたものを今日の挽歌にします。
書いているうちに、少し挽歌的になったからです。
しかし、書き変えずに、タイトルだけ少し変えてそのまま挽歌にします。

社会学者の大澤真幸さんの、次の言葉はとても心に響きます。

僕らは震災が起きたとき、さまざまな差異を超えて人々が連帯する可能性を直感できた。
でも、それはやはり、今一緒に存在しているからなんです。
まだ存在していない他者と連帯できるか。
声を上げることができない未来の他者を念頭に置いた社会が、人間にとって可能かどうかを、僕らは突き付けられている。

大澤さんは、もちろん、未来の他者を意識した社会は実現可能だと考えています。
そして、なによりも、そうしなければ、この社会は破綻するのではないかと言っているように思います。
しかし、大澤さんは、未来の他者は不在の他者でもあると言います。
不在の他者のために、実際の生活を変えることができるかどうか。
これは難しい問題だと大澤さんは言います。
しかし、そんなことはありません。
少し前までの日本の社会では、存在することのない未来の他者や過去の他者を意識した生活が普通だったのです。
それが壊れたのは、たかだかこの50年でしょう。

私がそういうことを強く実感するのは、5年ほど前に妻をなくしたからです。
この記事は、時評にするか挽歌にするか迷って時評にすることにしましたが、少しだけ妻のことを書きます。
妻を亡くしてから、ずっとこのブログで挽歌を書き続けていますが、そのおかげで、生と死、あるいは彼岸と此岸のことをいろいろと思いめぐらすことがふえています。
そうした中で、人は、いまはいない人に支えられて生きていることを強く実感できるようになってきたのです。
「いま、ここ」にはいない人たちによって、私たちの生活は支えられている。
私が子どもの頃までは、その「いま、ここにはいない人」は、お天道様とかご先祖様とか、あるいは7代先の子孫たちとかいう言葉で表現されていました。
その言葉は、今も私の生活を支え、あるいは規制しています。
「いま、ここにいる人」がいなくても、悪いことや恥ずべきことはできないのです。
規制と支援は、コインの裏表です。

伴侶を亡くして自ら生命を絶った人もいますが、相手を心底、愛し信じていたら、たぶんそうはしないでしょう。
「いま、ここ」からはいなくなったとしても、その存在を実感できるからです。
まあ、私の場合は、そういう心境になるまでに5年近くかかりましたが。

挽歌ではなく、時評なので、話を戻しましょう。
大澤さんの「未来の他者を意識した社会」は、たとえば未来世代のために環境や資源の浪費はやめよう、世界を壊すのはやめようということを意味させているでしょう。
しかし、そのことは同時に、未来の他者の存在こそが、「いま、ここ」での私たちの生活を質してくれることによって、私たちを豊かにしてくれているのです。
私たちが、未来の他者を意識するのではなく、未来の他者が私たちを意識していると言ってもいいかもしれません。
これは、ロゴセラピストのフランクルの「私たちが人生の意味を問うのではなく、人生が私たちに意味を問うているのだ」というのと構図が同じです。

ちょっと時評と挽歌の中間的な記事になってしまったばかりでなく、話がいささか大きく広がっていきそうです。
短絡的にまとめてしまうと、未来の他者のためではなく、未来の他者のおかげで、私たちの豊かさが「いま、ここ」にあることを書きたかったのです。
そう考えると、生き方を少し変えられるような気がします。
私が、そうであるように、です。
挽歌を書き続けているおかげで、私の意識は大きく変わってきています。
未来の他者とのつながりも実感できるほどになっています。
いや、未来と言うよりも、時間を超えた他者というべきでしょうか。
やはり書いているうちに、だんだん挽歌に引き寄せられそうで寸。
挽歌編にも再録してしまいましょう。
もう少し発展させられるかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/04/10

■未来の他者を念頭に置いた社会

社会学者の大澤真幸さんの、次の言葉はとても心に響きます。

僕らは震災が起きたとき、さまざまな差異を超えて人々が連帯する可能性を直感できた。
でも、それはやはり、今一緒に存在しているからなんです。
まだ存在していない他者と連帯できるか。
声を上げることができない未来の他者を念頭に置いた社会が、人間にとって可能かどうかを、僕らは突き付けられている。
大澤さんは、もちろん、未来の他者を意識した社会は実現可能だと考えています。
そして、なによりも、そうしなければ、この社会は破綻するのではないかと言っているように思います。
しかし、大澤さんは、未来の他者は不在の他者でもあると言います。
不在の他者のために、実際の生活を変えることができるかどうか。
これは難しい問題だと大澤さんは言います。
しかし、そんなことはありません。
少し前までの日本の社会では、存在することのない未来の他者や過去の他者を意識した生活が普通だったのです。
それが壊れたのは、たかだかこの50年でしょう。

私がそういうことを強く実感するのは、5年ほど前に妻をなくしたからです。
この記事は、時評にするか挽歌にするか迷って時評にすることにしましたが、少しだけ妻のことを書きます。
妻を亡くしてから、ずっとこのブログで挽歌を書き続けていますが、そのおかげで、生と死、あるいは彼岸と此岸のことをいろいろと思いめぐらすことがふえています。
そうした中で、人は、いまはいない人に支えられて生きていることを強く実感できるようになってきたのです。
「いま、ここ」にはいない人たちによって、私たちの生活は支えられている。
私が子どもの頃までは、その「いま、ここにはいない人」は、お天道様とかご先祖様とか、あるいは7代先の子孫たちとかいう言葉で表現されていました。
その言葉は、今も私の生活を支え、あるいは規制しています。
「いま、ここにいる人」がいなくても、悪いことや恥ずべきことはできないのです。
規制と支援は、コインの裏表です。

伴侶を亡くして自ら生命を絶った人もいますが、相手を心底、愛し信じていたら、たぶんそうはしないでしょう。
「いま、ここ」からはいなくなったとしても、その存在を実感できるからです。
まあ、私の場合は、そういう心境になるまでに5年近くかかりましたが。

挽歌ではなく、時評なので、話を戻しましょう。
大澤さんの「未来の他者を意識した社会」は、たとえば未来世代のために環境や資源の浪費はやめよう、世界を壊すのはやめようということを意味させているでしょう。
しかし、そのことは同時に、未来の他者の存在こそが、「いま、ここ」での私たちの生活を質してくれることによって、私たちを豊かにしてくれているのです。
私たちが、未来の他者を意識するのではなく、未来の他者が私たちを意識していると言ってもいいかもしれません。
これは、ロゴセラピストのフランクルの「私たちが人生の意味を問うのではなく、人生が私たちに意味を問うているのだ」というのと構図が同じです。

ちょっと時評と挽歌の中間的な記事になってしまったばかりでなく、話がいささか大きく広がっていきそうです。
短絡的にまとめてしまうと、未来の他者のためではなく、未来の他者のおかげで、私たちの豊かさが「いま、ここ」にあることを書きたかったのです。
そう考えると、生き方を少し変えられるような気がします。
私が、そうであるように、です。
挽歌を書き続けているおかげで、私の意識は大きく変わってきています。
未来の他者とのつながりも実感できるほどになっています。
いや、未来と言うよりも、時間を超えた他者というべきでしょうか。
やはり書いているうちに、だんだん挽歌に引き寄せられそうで寸。
挽歌編にも再録してしまいましょう。
もう少し発展させられるかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■節子への挽歌2047:「小なる自己」からの脱出

節子
ようやく生活のリズムが回復してきました。
この2か月ほど、かなり世間から脱落してしまい、いささかすねていた感じがありますが、少しずつまた素直になりだしています。
一時は、かなりの人嫌いになりそうでしたが、一昨日、この挽歌に書いた西田幾多郎の言葉を思い出したおかげで、すっきりできました。

我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って、幸福となるのである。

どうやら最近の私は「小なる自己を以て自己となす」状況にあったような気がします。
節子がいたらもっと早く気づいたのでしょうが、私一人だとなかなか自分の状況を相対化できないのです。
他者に期待するからこそ、失望してしまうのですが、そもそも他者への期待は「小なる自己」の成せるところなのです。
節子がいた時には、節子によく話していた言葉なのに、すっかりと忘れてしまっていました。

不思議なもので、自分がすねていると、ますます世間の風は冷たくなります。
そして自分では気づかないうちに、内向化し、世間をますます狭くしてしまう。
そうならないように、動き出せばいいのですが、外に向かって動くためのエネルギーが出てこなかったのです。
沈む気を払い、進む気を呼び込まないといけません。
そのきっかけを与えてくれる節子はもういませんから、自分で気を反転させねばいけません。

西田幾多郎の言葉は、3日かかって、私の気を戻してくれました。
気になっていた友人に電話をしました。
取り組みだす気になれなかった仕事の関係の呼びかけを始めました。
報告すべき人への報告をメールしました。
そうしたら、みんなからすぐに返事が来ました。
前に動き出せば、追い風が吹いてくる。
みんなが気を送ってくれるのです。

節子
明日からは、きっと前に向かっていい風が吹いてきそうです。
最近、般若心経も省略形が多かったのですが、明日からはきちんと全部を唱えることにします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/04/09

■節子への挽歌2046:若竹煮

節子
昨日、墓参りの途中で久しぶりに昔、節子が時々行っていた八百屋さんに寄りました。
すっかり様子は変わっていましたが、転居前には私も時々同行していたお店です。
そこで、福岡産の筍を見つけました。
今年もまた筍の季節になりました。
早速購入して下ごしらえをしてもらい、今日、夕食に若竹煮をつくってもらいました。
私の大好物です。

それにしても、季節がまわってくるのは本当に早いです。
この調子だと、節子に会えるのも、そう遠い先ではないでしょう。

しばらくは、筍三昧の季節です。
そして、すぐに夏が来て、秋が来る。
しかし、節子のいない春も夏も秋も、そして冬も、あまり季節感はないのです。
節子がいなくなってから、世界はどうも単調になってしまっています。
お花見も行きたいと思わなくなっています。

でも若竹煮は美味しいです。
それを食べていると、節子を思い出すからです。
ユカが、最近は節子と同じような料理を作り出してくれています。
ユカは奇妙な料理が得意ですが、私好みの節子料理もつくるようになりました。
家族みんなでつついた節子料理を思い出します。

節子を思い出すから避けたいことと節子を思い出すからうれしいこととがあります。
たとえばお花見は前者ですが、若竹煮は後者です。
この違いはなんなのでしょうか。

そういえば、今年初めての若竹煮を節子に供えるのを忘れていました。
わが家には、あまり食事を位牌に供える文化がないのです。
でもまあ、節子の写真が食卓にはありますので、それで良しとしましょう。
こういうことでは、節子も私と同じく「適当」なので、まあ笑って、賛成してくれているでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■資本の力に対抗するには土俵を変えないといけません

TPPのISD条項は企業に国家並みの権力を与えるということで、米国でも問題になりだしているそうです。
EUでも大きな問題になり出しているようです。
しかし、考えてみれば、資本と国家との戦いはもう勝負はついています。
資本の勝ちです。
それはそうでしょう。
資本にとって、いまや国家は邪魔をする存在ではなく、使い込む存在になっているように思います。
なぜなら国家もまた「経済的存在」になってしまっているからです。
経済的存在としては、国家の枠にとどまらず、しかも純粋に金銭的思考だけをすればいい資本が有利なのは言うまでもありません。
企業はすでに資本の軍門に下ってしまっています。
従業員よりも資本を優先する存在になってしまっているのです。
国家もそうなりつつあります。
立ち行かなくなった大企業に公的資金が流入されることに象徴されるように、国家は、資本に都合よく使われてしまっています。

このままでは、人間もまた資本に使われる単なる労働力や消費力になっていくでしょう。
それでも幸せな生活は送れるかもしれません。
そうした「生き方」にも誰かが「生きる意味」を与えてくれるでしょう。
しかし、私はそういう生き方は避けたいです。

資本に対抗するには、土俵を変えなければいけません。
つまり「金銭」を捨てなければいけません。
経済成長ではなく、生命としての成長を目指さなければいけません。
私は、そうありたいと思っています。

昨日、マイナス利子率を書きましたが、お金を捨てるということは、お金が減価するようにしないといけません。
お金が価値を創造するなどということを拒否しなければいけません。
お金が創造した価値など、ありがたがってはいけません。
私は、そうありたいと思っています。

資本に負けない土俵とはなんでしょうか。
それは、お金にはできないが人間にはできることが中心になる場です。
「お金にはできないが人間にはできること」。
そういうことはたくさんあります。
お金で買えないものはないといったホリエモンも少し考えが変わったようですが、お金で買えないものは山のようにあります。
生き物にしかできないことを大切にして生きる人が増えていけば、資本などこわくない社会が育っていくように思います。
国家のあり方も変わっていくように思います。
そして、資本主義とは違った経済が開けてくるような気がします。
社会全体がそうなるには、100年ほどの時間が必要でしょうが、個人の生活であれば、そう難しい話ではないかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/04/08

■節子への挽歌2045:「ありのままにある」生き方

節子
「ありのままにある」ということが、私の信条のひとつです。
しかし、それは簡単そうで難しい。
しかも、「ありのままにある」ことを志向した途端に、それは遠いものになってしまいます。

私が、最も「ありのままにある」ことができたのは、節子と一緒だった時でしょう。
節子と一緒に暮らしたおかげで、「ありのままにある」生き方を体験できました。
そして、それがいかに快適なものかも知りました。
ありのままにあれば、のびのびと、大らかに、楽しくなります。
そのために、何回かの「大失敗」もしましたが、それもまた前向きに考えられるようになりました。
「不幸」もまた「幸せ」のうちであることも知りました。

しかし、節子と別れてからは、同じ「ありのままにある」生き方も、大きく変質しました。
内向きになりがちで、時に沈みがちでした。
沈んでしまうと心身が動かなくなる。
そうなると、動かないでいることが「ありのままにある」ことになりかねません。
いや、最近、そう思うようになっていました。

今日、西田幾多郎の「善の研究」に書かれている文章に久しぶりに出会いました。

我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って、幸福となるのである。

前にこの言葉に出会った時、「客観的自然と一致する」とは「ありのままにある」ことだろうと考えたことを思い出しました。
いまの私の「ありのままにある」とは明らかに違います。
今の私の「ありのまま」は、いわば「小なる自己のまま」かもしれません。
だから苦痛も多く、時に沈んでしまう。
それは、決して、客観的自然と一致する「ありのままにある」ではありません。
どこかで、「ありのまま」をはきちがえてしまっているようです。

節子がいた頃のような、大きな「ありのままにある」生き方には戻れないかもしれませんが、「小なる自己を以て自己となす」ことはやめようと思います。

今日は釈迦の誕生日の花祭り。
朝、お墓参りに行ってきました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■利子がマイナスになる利子率革命はどうでしょうか

日銀新総裁の黒田さんの発言は、経済界からは好感を持って受け容れられているようです。
私には、何やら時代錯誤のような気もしますし、生活者にはなにひとついいことはないように思いますが、多くの人は歓迎しているようです。
実に不思議な話です。
日本ではみんな資産家になり、貧しいのは私だけなのかもしれません。

ところで、アベノミクスをいとも簡単にばっさりと切り捨てている人がいます。
証券アナリスト出身のエコノミストの水野和夫さんです。
民主党政権時代には、内閣審議官もつとめた人です。
それもあってか、かなり辛らつで、たとえば、
「陳腐化しているとしか思えない「成長戦略」や規制緩和を未だに言い出す」
「(インフレ信仰に基づいて)今だってさかんにインフレ期待を唱えている」
とばっさりと切り捨てます。

水野さんは視野狭窄を特徴とする経済学者ではないようです。
社会学者の大澤真幸さんとの対談集の「資本主義という謎」(NHK出版新書)を読むと、それが良くわかります。
この本は気楽に読める新書本ですが、とても面白いです。

その本にも出てきますが、水野さんは「利子率革命」という視点から経済の大きな流れを読み解きます。
「利子率革命」とは長期にわたって超低金利が続くことで、そうなると既存の経済・社会システムはもはや維持できなくなるので、そうした時期を歴史学者は「利子率革命」と言うのだそうです。
いままさに、日本においても世界においても、そうした状況が起こっているわけです。
この話はとても示唆に富んでいるので、関心のある人はぜひ「資本主義という謎」をお読みになるといいと思いますが、私はさらにその先を考えてみたいと思います。
つまり、低金利ではなくマイナス金利の経済・社会システムです。
「資本主義という謎」という本の副題は、「成長なき時代をどう生きるか」ですが、もしかしたら、マイナス利子革命が新たなる成長社会を生み出すのではないかと思います。

マイナス利子の発想はすでにさまざまなところで具現化されていますが、お金がお金を生み出す社会は、やはりどこかおかしいと思えてなりません。
そういう状況の中では、生活はお金には勝てないでしょう。
お金がお金を生み出す経済の通貨とは一体何なのかも理解しないといけませんが、さらにパイを大きくしたらみんなの分け前は大きくなるなどと言う話にまだ騙されるようなことがあってはいけません。
アベノミクスで社会はさらに壊されていくような気がして不安です。

それにしても、日本人は変わってしまいました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/04/07

■節子への挽歌2044:ファッションライフとは程遠い生活

節子
春が来たら、何を着ていいか、わからなくなりました。
季節の変わり目は、いつも困ります。

節子がいなくなってから、衣料を買いに行かなくなったので、着るものがないのです。
ユカが時々、買いに行こうと言ってくれるのですが、どうも衣服売り場で探すのが面倒です。
もともとおしゃれでないにもかかわらず、着るものへのこだわりがあるのです。
一言で言えば、主張していない衣服が好みです。
ですから、キャラクターやロゴの入っているものはだめですし、ましてやブランド物などは問題外です。
無地で、デザイン的にも主張がなく、私でも着られるものです。
そういうものが、意外と少ないのです。
その上、わが家の経済状況と支出優先度からいって、価格水準もかなり低いのです。
ですから、娘も一緒に買いに行くのを好みません。
節子だったら、厭わずに付いてきてくれて、私が飽きた頃にむりやり買ってくれるのですが、娘にはそこまでの要求はできません。
それに、節子がいなくなってからは、せいぜい行くのがイトーヨーカ堂かユニクロなのです。
ユニクロはシンプルでいいので、時にフィットするとまとめて色違いを数着購入してもらいますが、そのおかげで毎日同じ種類のものを着る羽目になります。
たまには違うものをと言われても、それしかないのです。
それに朝、何を着ようかと考える必要もありません。
何を着るか、選ぶのが楽しみだという人もいるでしょうが、選択は少ないにこしたことはありません。
それが私の、今の生き方なのです。

歳をとるとどんどん汚らしくなるのだから少しは身だしなみや着るものに注意しろと娘は言います。
しかし、私にはそれがまったくできないのです。

ネクタイは、この2年、2本しか使っていません。
娘が、毎回同じではだめだと言って、先日クローゼットを探したら、ネクタイがたくさん出てきました。
娘が誕生日に苦労して選んだ高価なネクタイも埋もれていましたので、娘は嘆いていました。
しかし、やはりネクタイは2本もあれば十分です。
そのネクタイは、1本が5000円で、1本が500円だったと思いますが、いまや私には区別がつきません。
実は、そのことが気にいっているのです。

わが家のチビ太くんのデザインのネクタイも出てきました。
昔は、いろんなネクタイを使っていたようです。
私の生き方もかなり変わってきているようです。

娘からは、穴のあきそうな靴下は自分で捨てろといわれていますが、もう一度くらいはけるなあと思って捨てないうちに穴が開いてしまっています。
それで娘に怒られますが、節子がいた頃はどうしていたのでしょうか。

食事をつくってくれている娘が、時々、何がいいかと訊いてきます。
なんでもいいよというと怒られます。
衣服も食事も、選択などしないですむ生活がしたいです。
節子がいなくなってから、ますます「選択」に興味を失ってきています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/04/06

■「みなの口にはいることがまつりごと」

最近、韓国歴史ドラマを時々見ます。
いま見ているのが百済の最後の将軍を主人公にした「ケベク」です。
昨日の録画を見ていたら、こんな言葉が出てきました。
「みなの口に(食べ物が)入ることがまつりごと」。
とても納得できます。
北朝鮮では「まつりごと」が不在なのです。

でわ日本ではどうでしょうか。
一応、みなの口に食べ物は入っているのでしょう。
だから、みんなの政治(まつりごと)への関心が低いのかもしれません。
いいかえれば、「みなの口に入ること」を目指す「まつりごと」は実現できている。
まつりごとは、次の段階に進む段階に来ているといっていいでしょう。
しかし多くの人は、まあ「口に入る生活」を維持しているのだから、これでいいと思っているようです。
消費税増税が必要だと言われればそれに従い、原発も必要だと言われればそれにも従い、円安は良いことだと言われれば喜び、どんどんと自らの生活を窮屈にしながらも、まあ「口に入る生活」ができるからいいと「小さな生活」に閉じこもっているような気がします。
あれほど危機感を募らせ、反原発だと騒いだにもかかわらず、選挙では原発推進者たちを支持し、暮らしが苦しいなどといいながら消費税増税や円安を支持しているのですから、もう、何をか言わんや、です。
口に入れられる生活を実現してくれたお上には従順なのです。

昨日、テレビでホームレスになりながらも、生活保護を申請していない人が、取材に応じて、「生活保護費はみんなの税金から支払われているのでしょ、みんなには迷惑をかけられない」と話していました。
お上の言いなりになっている人たちの、これが末路かもしれません。
見ていて、なにかとても悲しくなりました。

政治は、次の段階を目指すべき時期に来ています。
みんなが口に入れられる状況に甘んじていてはいけないのではないか。
その一方で、まだ口に入れられない生活をしている人たちが、地球上にはたくさんいます。
あるいは、このままで行くと、日本でも将来、そういう状況が生まれるかもしれません。
そうした想像力を高めていくべきではないかと思います。
それに、みんなの口に入るものが、どんどんと汚染されてきていることも忘れてはなりません。
口に入るからといって、そこに安住せずに、自らの生き方を見直していくことも大事なような気がします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■節子への挽歌2043:「行動するかどうか迷った時には行動する

節子
今日は結局、湯河原に立ち寄らずに帰宅しました。
箱根は、旅行客でいっぱいでした。
桜は終わっていましたが、新緑がきれいでした。
見慣れた風景が最近ようやく目にきちんと入って来るようになりました。

箱根は合宿だったのですが、ある人がフッサールの話を持ち出しました。
フッサールは、「私」と「あなた」がもともとあるのではなく、お互いの関係のなかで「私」も「あなた」も事後的に構成されてくると考えました。
人は人との関係において人になるという話です。
「あなた」と「私」が別々にいるのではなく、あなたと私がいるから、「あなた」と「私」がいるという話です。
言い換えれば、人は人との関係において、別の人になるということです。
たしかに、節子がいた時の私といなくなってからの私は、明らかに違います。
どう違うのかはなかなか言葉にはできませんが、行動が違っているはずです。
主観的には意識が違っています。
何を見ても、それまでとは違って見えています。

節子がいたら、少なくとも今日は帰らなかったでしょう。
「行動するかどうか迷った時には行動する」というのが節子の考えでした。
これはとても便利なルールです。
人生において迷うことは多いのですが、このルールを身につけると迷うことが少なくなります。
しかし、今回はこのルールを破ってしまいました。
それで気づいたのですが、ここで「迷う」とは「意見が違った時」の意味だったのです。

私たちは、意見の違うことが少なくありませんでした。
たぶん最初の頃は、私のほうが主導的だったので、節子は私に無理やり同意させられていた傾向があります。
「無理やり」というのは正確ではなく、最初、節子は私のことをいつも正しい判断をすると過信していたのです。
しかし、次第にその間違いに気づきましたが、一度できたルールはそう簡単には変わりません。
それで生まれたのがこのルールだったのかもしれません。

2人だと、まあどんなことになっても、支え合えばどうにかなります。
事実、ある時、とんでもない即断をしたことがありましたが、なんとかいい方向で乗り切れたのです。
だからこのルールは極めて合理的です。
しかし、一人だとそう簡単ではありません。

現に私は、つい最近も、迷わずに行動して、いささか一人では重過ぎる荷物を背負ってしまいました。
ですから、このルールは節子がいた時のルールだったのです。
今はきちんと迷わなければいけません。

こうして、節子がいなくなった「新しい私」がまた生まれて来るのでしょうか。
フッサールの言っていることとは、あんまり関係のない話になってしまいました。
でもちょっとはつながっていますよね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■節子への挽歌2042:なぜか天気が荒れるとわくわくします

節子
昨日から箱根に来ています。
いつもの企業の人たちとの合宿です。
もう25年くらい続いている仕事です。
湯島でも何回も会っているので、わざわざ箱根の合宿にまで付き合わなくてもいいのですが、一応、私が参加すると安心なのかもしれません。
しかし、今日の午後から天気が荒れ模様になるようです。
それで合宿を早目に切り上げることになりました。
私は、湯河原に立ち寄ってツルネンさんに声をかけてみようかと思っていますが、ツルネンさんが自宅にいるかどうかもわかりません。
どうしようか迷っています。

ところで私は天気が荒れるとなぜか心がわくわくします。
節子からはいつも不謹慎だと呆れられていましたし、娘からは台風で川を見に行って事故に会うようなことはするなと注意されています。
しかし、なぜか心がわくわくする。
それはどうしようもありません。
節子がいなくなっても、これは直っていないようです。

さてどうするか。
節子がいなくなってから、ますます安全思考がなくなってきました。
箱根は、しかし陽が出てきて、とても穏やかです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/04/04

■節子への挽歌2041:藤原さんのコーヒー

節子藤原さんが美味しいコーヒーをどっさり持ってきてくれました。
藤原さんの持ってきてくれるコーヒーはとても美味しいのです。
昔、湯島でコーヒーを飲んでくれた人たちが、最近は逆にいろんなコーヒーを持ってきてくれます。
私自身は最近は近くのスーパーの大安売りで購入するコーヒーが気に入っているのですが、それとは別にみんなが持ってきてくれるので、毎日、コーヒーは4.5杯も飲んでいます。
いまは特にいろんなのが集まっています。
インドネシアのトラジャコーヒー、ベトナムコーヒー、スリランカのコーヒー、イタリアの苦いコーヒーもあります。
今日藤原さんが持ってきてくれたのは、ブルーマウンテンのブレンドです。
先日はモカマタリもありましたし、マンデリンもまだ豆が残っています。
豆を挽いてコーヒーを淹れてくれる人が、最近は湯島に来ないのでそのままです。
一度飲んでみたいと思いながら、まだ飲めていないのが、ペルシアのコーヒーです。
どなたか是非いつか持ってきてください。

こう書くと、いかにも私はコーヒー通のように聞えますが、そうではありません。
昔は、それなりに味にこったことはありますが、いまは先ほど書いた近くのスーパーの安いコーヒーで満足しています。
そのため、娘は、お父さんはほんとうにコーヒーが好きなのか、と疑っています。
好きならもっとこだわったらと言うのですが、正直、その安いコーヒーはおいしいのです。
しかし、藤原さんのコーヒーには負けます。
それで半分は自宅に持ち帰ってしまいました。

節子と一緒につくった私たちの会社の定款には、事業目的として「喫茶店の経営」が書かれています。
いつかは節子と一緒に喫茶店を開きたかったのです。
私の目指す喫茶店は、お客様として来てくれた人が、私にコーヒーを入れてくれるという喫茶店です。
私の役目は、お客様が淹れたコーヒーを一緒に飲む役目なのです。
そんな喫茶店があったらいいと思いませんか。

もし節子がいたら、そろそろそんな喫茶店を開くことを考える時期です。
たぶん開店したとしても、お客様はあんまりこないでしょうから(なにしろ美味しいコーヒー豆持参で、コーヒーを私のために淹れて、しかもお金を払わなければいけません)、いつも節子と2人でお客様を待ちながら、節子がコーヒーを私のために淹れ、私が節子のために日本茶を淹れることになったはずです。
まさに花見酒ですが、そんな老後の生活を楽しめなくなってしまったのが、とても残念です。

さて寝る前に、藤原さんのコーヒーをいただきましょう。
今日、湯島で藤原さんに淹れたトラジャコーヒーはちょっと淹れ方がわるくて美味しくなかったので、口直しです。
私は寝る前にコーヒーを飲んでも大丈夫なのです。
トイレに起きるので、節子がいた頃は、飲まないようにしていましたが、いまは歳のせいで、コーヒーを飲まなくてもトイレに起きるので、問題ありません。
でもちょっと薄めにしておきましょうか。
考えてみると、今日、6杯目ですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■第三者委員会ってなんでしょうか

最近気になる言葉があります。
「第三者委員会」です。
問題が起こると「第三者委員会」に調べてもらおうというのが流行のようです。
そのほうが「客観的」で、説得力があるということでしょうか。
しかし、私には完全に、責任放棄に感じます。
「第三者」でなければ見えてこないこともあるでしょうが、「当事者」でなければ見えてこないこともあります。

しかも問題は、第三者委員会の結論や指摘が、当事者によって守られるわけでもありません。
聞き流されるとまでは言いませんが、それが遵守されたり、当事者の言動を変えるとは限りません。
第三者委員会の結論や提言に強制力があるわけではありません。
私には単なる「儀式」にしか思えません。

そもそも「第三者」とはおかしな言葉です。
利害関係がない人という意味でしょうが、利害関係のない人でなければ真実が見えないと思う発想が私には理解できません。
そうした人も参加する委員会であれば、その存在の意味も理解できますが、第三者に果たして踏み込んだ思考ができるでしょうか。
ただただ「形を整えた、見える要素を前提にした論理的な思考」しか出来ないでしょう。
そこには現場とのつながりはありません。

そうした流れに一方で、「当事者主権」とか「当事者研究」という動きも強くなってきています。
当事者と第三者は、姿勢と目的が違います。
なによりも、コミットの度合いが違いますから、真剣みが違います。
私は10年以上、さまざまな市民活動にささやかに関わっていますが、その体験から、活動の中心にいる人が、何らかの意味で「当事者」である活動は信頼できます。
私の表現では「社会のため」ではなく「自分のため」に活動を始めた人は信頼できます。
当事者から教えられることはたくさんあります。

一時期、「痛みを分かち合おう」という言葉がはやったことがあります。
しかし、痛みを分かち合えるのは当事者だけです。
そもそも当事者でない人は、痛みを理解すらできません。
「痛みを分かち合おう」などという言葉は、権力者の言葉でしかないのです。
当事者は、決して「分かち合おう」などとは言いません。
黙ってただ「分かち合う」のです。

安直な第三者委員会の動きには、違和感があります。
当事者が自分の問題としてしっかりと事実を見直し、言動を省みる仕組みこそが必要です。
第三者は不可欠な存在だと思いますが、主役ではありえません。

ちなみに、いまの国会は国民の生活にとっては「第三者委員会」かもしれません。
そう考えると、奇妙に納得できることが少なくありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/04/03

■節子への挽歌2040:ツルネンさんからの手紙

節子
国会議員のツルネン・マルテイさんから「国政報告」が届きました。
ツルネンさんは、フィンランド生まれですが、日本初の青い目の国会議員として話題になった人です。
最近はまったくのご無沙汰だったのですが、今度の選挙が厳しいので、たぶん私にまで送ってきたのでしょう。
私とのつながりは、民主主義を考えるリンカーンクラブを通してです。
当時、私は事務局長で、ツルネンさんは会員でした。

ツルネンさんが国会議員に立候補する時に、彼から電話がありました。
当時、ツルネンさんは神奈川県の湯河原町の町会議員でした。
私は、終の棲家を湯河原にしようかという思いで、湯河原にマンションを購入したころでした。
それもあって、節子と一緒に、湯河原にあるツルネンさんの自宅を訪れました。
奥さんの手づくり料理で歓待してくれました。
そこで、ツルネンさんから選挙に出るので事務局長を引き受けてもらえないかという申し出がありました。
ツルネンさんが取り組んでいた地域活動などに、私もささやかに応援していたことから、私に打診してきたのでしょう。
残念ながら、私は当時(今もですが)、そうしたことにまったく興味がありませんでしたので、丁重にお断りしました。
その後、私よりも適任だと思われる、しっかりした事務局長が見つかりましたので、私が引き受けるよりもツルネンさんにはよかったでしょう。

ツルネンさんは、その後、苦労を重ねましたが、当選し、国会議員になりました。
ツルネンさんとは、その後、会う機会はあまりなくなりました。
国会議員になった知人は数名いますが、議員になった途端に疎遠になるのは、たぶん私の性癖のなせるところでしょう。

しかし、テレビなどにツルネンさんが出てくると、私も節子もなんとなく親しみを覚えました。
ツルネン家でご夫妻に歓待されて記憶がどこかに残っているからかもしれません。
その後、節子と一緒に湯河原に行った時に、ツルネンさんのところに行こうかと話したことはありますが、国会議員になってしまってからは、どこか敷居の高さを感じ、実現しませんでした。

もし節子がいて、この手紙を読んだら、ツルネン家に立ち寄ろうという気になるだろうなと思います。
ツルネンさんはとても気さくな人で、とても誠実で質実な人なのです。
久しぶりに彼に会ってみたい気もしますが、節子と一緒でないと、ちょっと腰が重いです。
節子と一緒だと、どこにでも行けたのですが、一人だとなかなかその気になれません。
なぜでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/04/02

■節子への挽歌2039:「節子がやったんじゃないの」

節子
とてもいい言葉を見つけました。
わが家で何か不都合なことが起こり、その責任が問題になることがあります。
たとえば、今朝、牛乳の紙パックのゴミ処理の仕方が悪い、誰がこんな捨て方をしたのかと娘が怒っていました。
まあ私しかいないのですが、私はこう答えました。
「節子がやったんじゃないの」。

この言葉は実にいい言葉です。
責任回避と目くじらをたてることはありません。
節子も家族の役に立っていると喜んでいるでしょう。
家族は、節子と一緒にいる気持ちになれます。
それにこれからは、何が起こっても、節子がすべて引き受けてくれるわけですから、平和が維持できます。

実はこれはわが家の文化でもありました。
あらかじめ「だれのせいか」を決めておけば、とても楽なのです。
そもそも「事の良し悪し」は、立場によって違ってきます。
ですから話し合ってもなかなか決着はつきません。
しかし、「良し悪し」を引き受ける人を決めておけば言い争いにはならないのです。
とまあ、そのはずでしたが、なぜか私たちの夫婦喧嘩はなくなることはありませんでした。
何か不都合が起こってその責任がわからない場合、すべて節子のせいにするというのは、わかりやくしていいルールだと思っていたのですが、どうもそうではなかったようです。
これだけ聞くといかにも私の身勝手さだと思われるかもしれません。
そうではないのです。
基本は私が悪いという前提がその前にあるのです。
どうですか。いいルールでしょう。
問題は、このルールを節子が納得していなかったことです。
困ったものです。
しかし今はもう節子の反対はありません。
ようやくこのルールのよさが行かせる時が来ました。

節子はいまも家族の役に立っています。
ありがたいことです。はい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■病気を完治させようと思うことはありません

昨日書いた腰痛の話の続きです。

「腰痛は〈怒り〉である」も面白かったです。
著者の長谷川淳史さんは「腰痛は不快な感情との直面を避けるために生じる心身症である」という考えから、独自の腰痛治療プログラムを開発した人です。
その長谷川さんが、ある雑誌で、自分も腰痛に苦しんでいるジャーナリストの粥川準二さんのインタビューの最後にこう話しています。

完治にこだわる必要はありませんよ。
レッドフラッグがなければ、腰痛で命をとられることはありません。
腰痛を治すために生まれてきたわけじゃないんですから、腰痛はあってもいい。
あってもいいから、人生というゲームを楽しみましょう。

腰痛の辛さをしらない人のたわごとだといわれそうですが、長谷川さんもインタビュアーの粥川さんも、いずれも腰痛で苦しんだ人だそうです。
だからこそ言える言葉であり、受け入れられる言葉なのかもしれません。

私は腰痛とは無縁の人間ですが、「完治にこだわる必要はない、人生というゲームを楽しみましょう」という考えにはとても共感できます。
そもそも「病気」という概念にさえ、最近は違和感を持ち出しています。
「病気」「障害」、なんとも違和感のある言葉です。
長谷川さんは、そのインタビューの冒頭でこう話しています。

さまざまな病名をつくつて医療の対象にしてはならない。ただのカゼのようなものにも病名をつけて、患者さんを取り込んで商売にするのはやめようというのが、現在の中立公平な立場からの見解だと思っています。

私は健全に老化してきていますが、病院で何か言われたら、健全に老化しているということですね、と言うようにしています。
否定されたことはありません。

長谷川さんは、病気を人生にとって「マイナス価値」しかないと考える必要はない、と言っているわけですが、病気にとどめずに、少し広げて考えてみましょう。
トラブルや心配事もまた、人生というゲームにとっては大事な要素なのだと考えると世界は違って見えてきます。

有名なシャクルトンの求人広告という話があります。

探検隊員を求む。至難の旅。わずかな報酬。
極寒。暗黒の長い月日。絶えざる危険。
生還の保証なし。成功の暁には名誉と称賛を得る。 
   アーネスト・シャクルトン

これは1900年にロンドンの新聞に掲載された探検家シャクルトンによる南極探検隊員募集の広告です。
みなさんは応募されますか。
最近の金銭的条件だけにしか興味のない経済人たちは応募しないかもしれませんが、当時のロンドン人のあいだでは大騒ぎになったそうです。

考えを変えれば、アベノミクスで雇用を増やしてもらわなくても、仕事は山のようにあります。
あれ、いつの間にか、話が全く変わってしまっていますね。
すみません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013/04/01

■節子への挽歌2038:悼みと痛み

時評編で「痛み」について書いたので、挽歌編では「悼み」について書くことにします。
「悼み」と「痛み」は深くつながっているからです。
痛みを伴わない悼みはありません。

旅立った人を悼むことは、痛みを引き受けることです。
しかし、同時に、痛みを解き放してくれるのもまた、悼むことの働きでしょう。
「痛み」と「悼み」は、深くつながっています。

「悼む」とは、もともと、自分の体や心が「痛む」ということ、人の死に接して自分の心が「痛み」、それを嘆き悲しむということだそうです。
『新字源』によれば、「悼」は、「心と卓(ぬけでる意)とから成り、気がぬけ落ちたような悲しみの意を表す」と説明されています。
身が切られるような悲しみは、まさに現実に痛みを引き起こします。
しかし、「悼む」ことで「悼み」を軽くなることもあります。
「痛み」は自らに向いていますが、死者を「悼む」ことで、その向きを反転させることができるからです。
痛みは、悼むことによって、外に出て行くのです。
これが、私の体験から見えてきたことです。

「痛み」は「社会的な断絶」によって引き起こされる痛みや苦悩だと、ジャーナリストの粥川準二さんが言っています。
愛する人との別れは、まさに「社会的な断絶」を起こす要因のひとつです。
節子がいなくなったことで、私はそのことを強く体験しました。
底のないほどの孤立感に襲われ、世界から現実感が消えてしまったのです。
一時期は、娘たちさえも、幻のように感じました。
感情が消え去り、思考の秩序は乱れ、自分から心が抜け出ていくような、そんな状況にしばらくは陥っていたように思います。
リアリティを感じない世界に生きているのは、とても不思議な感覚でした。

その「痛み」から立ち戻れずに、自らの生命や生活を絶つ人がいるのもよくわかります。
ここでいう「痛み」は、心が痛むといったようなものに限りません。
実際に身体が痛むこともあるのです。
しかし、悼むことによって、そこから抜け出ることもできる。
「悼む」という営みは、「痛み」において死者に出会うということだと、以前、この挽歌でも紹介した「花びらは散る 花は散らない」の著者の竹内整一さんは書いています。
西田幾多郎は、それによって生き直せました。

こう考えていくと、実は「愛」という関係は、一方の死によっては終わらないことに気づきます。
むしろ、「いたみ」を通して、愛は深まることもある。
その「愛」は、もはやそれぞれの「愛」ではなく、それぞれをつなぐ「愛」です。
「悼み」を通して、「痛み」を分かち合うことで生きつづける愛。
それは必ずしも「現世」の愛ではないのですが、人の生を支える力は十分に持っているような気がします。

悼まなくなった時に痛みは消え去り、愛も終わるのかもしれません。
愛の終わりもまた、愛の成せる奇跡のひとつではないかと、最近思うようになってきました。
そこに見えてくるのは、やはり「大きないのち」です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

■社会の痛みが腰痛を起こしている?

最近、なぜか週に2~3回、近くの整体院に通っています。
お試し券なるものをもらって立ち寄ったのがきっかけで、もう3か月以上、通っています。
私は腰痛もなければ、脚も痛くありません、
どこといって悪いところはないのですが、腰椎と脊椎を矯正したほうが良いといわれて、まあ明るい感じの整体院なので通っているわけです。
そろそろ飽きてきましたが、若い整体師が毎回次はいつ来ますかというので、その言葉に乗せられてしまって、今もって通い続けているわけです。

まあそれはいいのですが、そこではまず腰を10分ほど遠赤外線で温めます。
その間、他の人と整体師の話を聞くでもなく聞いているのですが、腰痛の人が多いのに驚かされています。
それも比較的若い人も多いのです。
腰痛の経験のない私にとっては、その痛みの辛さはわかりませんが、かなり大変そうです。
それにしても、腰痛の人がこんなに多いとは思ってもいませんでした。

そんなことが刺激になって、「痛み」という問題に興味を持ち出しました。
身体的な痛みと社会的な痛みとがつながっているという話を何かで読んだ記憶があったからです。
そのなかで、とても面白い本に出会いました。
大阪大学大学院准教授の篠原雅武さんの「全-生活論」です。

篠原さんは、私たちは世界が壊れるかもしれないことを、「痛み」という感覚を通じて予見しているのではないかと言うのです。
つまり、「痛み」が生じるのは、私たちの生きている状況が脆くて、壊れやすくなっているからで、壊れそうなところに「生じる」のが「痛み」なのだというわけです。
そういう認識に基づいて、篠原さんは、「痛み」を起点にして、生活や社会を問い直していきます。
「この世に生きていることの痛みは、生活という組織体の綻び、解体から、生じるものである」から、綻び、壊れつつある生活を作り直し、「痛み」の生じることのないものへと仕立て直さないかぎり、痛みは決して軽減されず、むしろ、いっそう深刻になる、と考えるのです。
とても共感できます。
そして、腰痛に悩む人が多い理由がよくわかります。
腰痛が広がっているのは、実は社会が壊れているからだと考えると、奇妙に納得できてしまいます。

ちなみに、この考えは、私がこの10年以上、取り組んできた活動と見事に重なります。
人を不幸にする問題を個別に捉えるのではなく、生活全体のつながりのなかで捉え直していかなければいけないというのが、私の取り組んでいる「大きな福祉」の考え方です。
社会のあり方を、言い換えれば私たちの生き方を変えない限り、自殺も認知症も腰痛もなくなってはいかないだろうというのが、私の考えです。
逆に言えば、私のような生き方をしていれば、認知症にもならず自殺にも巻き込まれず、腰痛も起きないというわけです。

とはいうものの、最近、私は腰痛ではありませんが、体調も気力も不調が続いています。
これもやはり、社会の壊れのせいなのでしょうか。
たしかに昨今は、私も居心地の悪さや生き難さを感ずることが増えています。
私自身の生き方に自己満足していてはいけませんね。
さて、どうしたらいいでしょうか。
人並みに腰痛になったほうが、楽かもしれません。
もう少し整体院に通ったほうがよさそうですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年3月 | トップページ | 2013年5月 »