フェイスブックに「アメリカの民主主義は、皮肉なことに1960年代のカウンターカルチャーの興隆を契機に反転し、今では「失われた民主主義の時代」という人もいます」と書いたら、もう少し詳しく説明してほしいといわれたので、ここに書くことにしました。
アメリカ社会が変質したのは1960年代と言われています。
当時は、カウンターカルチャー全盛の時代でした。
このブログでも何回か書きましたが、チャールズ・ライクの「緑色革命」が当時のアメリカの動きを紹介しています。
ライクは、「意識」の革命こそが新しい世界の創造に必要と説き、それを基盤に置いた共同体の設立を提案していました。
同時に、公民権活動などの少数者の権利確立型の動きも活発化していました。
いずれの動きにも、20代だった私は共感しました。
そして、アメリカでの民主主義はさらに前に向かって進化すると思っていました。
しかし、皮肉なことに、そうした動きが、トクヴィルが「アメリカのデモクラシー」で描いた、生活する人が主役の、実にライブな民主主義を変質させていくのです。
このあたりの分析は、アメリカの社会学者のシーダ・スコッチポルの「失われた民主主義」という本に詳しく書かれています。
彼が標榜しているのは、「メンバーシップからマネジメントへ」という流れです。
ちなみに、この本は、5年ほど前に書かれた本ですが、昨今の日本の状況を考えるうえでもとても示唆に富んでいます。
何となく私が感じていたことを整理してもらえたので、私が取り組んでいる活動にも確信が持てました。
これに関しては、いつかまた書きたいと思いますが、今日は、カウンターカルチャーと民主主義のことです。
トクヴィルの時代から1950年ころまでのアメリカの社会の主軸は、草の根市民に根を張るメンバーシップ型の自発的結社でした。
メンバーシップ型の自発的結社への参加を通して、多くのアメリカ人は「自治に関する最良の教育」を学んできたといわれています。
それだけではありません。
それを通して、アメリカの民主主義が育ってきたのです。
スコッチポルが実証していますが、自発的結社は自閉的ではなく、国家につながる形で、国家の代表制ガバナンスに、普通のアメリカ人を架橋していったのです。
こうした構造は、アメリカという国の成り立ちに起因していますが、西部劇(特に1970年代までに制作された西部劇)などを観ると、その始まりの姿がよくわかります。
しかし1960年代に広がった新しい運動は、そうしたメンバーシップ型自発的結社を一気に後退させていきます。
代わりに姿を現したのが、テーマ型の新しい市民運動です。
それを主導したのは若者たちであり、とりわけ知的エリートと言われる人たちでした。
そして、メンバーシップ型の社会活動は、マネジメント型のアドボカシー活動や社会貢献活動へと変化したといわれます。
生活者から専門家、あるいは市民起業家たちに主役の座が移ったのです。
今やアメリカの市民活動組織は会費で成り立つというよりも、外部からの資金で成り立つプロ組織へと変質してしまいました。
長々と書きましたが、実はこれは日本においても展開されている図式です。
私は30年ほど前から、こうした動きに関心を持っていますが、ビジネスの世界のみならず、市民活動の世界でも、お金と「専門性」が力を高め、みんなで一緒に取り組むというコモンズの感覚が希薄になり、テーマが細分化され、気が付いたら「人間の生活」が脇に追いやられてしまっているという状況は、ますます加速されているように思います。
民主主義の話が出てこないといわれそうです。
民主主義は人間一人ひとりが主役だと考えてもいいでしょう。
そして、個々人の生活と国家の政治との距離感が短くなることが、民主主義の進化ではないかと思います。
もしそうならば、1960年代以後のアメリカの動きは、明らかに民主主義の後退です。
スコッチポルは、このままだとアメリカは「民主的市民の国民共同体ではなく、管理者と操作された観客の国」になると懸念しています。
観客は主役ではありません。
さらに、スコッチポルは、最近のボランティア活動は、仲間と「ともにする」ことよりも、他の人の「ためにする」ことに向かっているというのです。
誰かのための行動は、どんなに着飾ろうとも、人と人との関係に上下構造をもたらしますから、私には民主的とは思えません。
私が、昨今のNPOや社会起業家の動きに全幅の信頼を持てず、最近の社会のあり方に違和感があるのは、こうしたことがどうしても気になるためです。
かなり舌足らずですが、私には「コモンズの回復」に向けての、ゆるやかなメンバーシップが大切なように思えます。
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