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2013/04/10

■未来の他者を念頭に置いた社会

社会学者の大澤真幸さんの、次の言葉はとても心に響きます。

僕らは震災が起きたとき、さまざまな差異を超えて人々が連帯する可能性を直感できた。
でも、それはやはり、今一緒に存在しているからなんです。
まだ存在していない他者と連帯できるか。
声を上げることができない未来の他者を念頭に置いた社会が、人間にとって可能かどうかを、僕らは突き付けられている。
大澤さんは、もちろん、未来の他者を意識した社会は実現可能だと考えています。
そして、なによりも、そうしなければ、この社会は破綻するのではないかと言っているように思います。
しかし、大澤さんは、未来の他者は不在の他者でもあると言います。
不在の他者のために、実際の生活を変えることができるかどうか。
これは難しい問題だと大澤さんは言います。
しかし、そんなことはありません。
少し前までの日本の社会では、存在することのない未来の他者や過去の他者を意識した生活が普通だったのです。
それが壊れたのは、たかだかこの50年でしょう。

私がそういうことを強く実感するのは、5年ほど前に妻をなくしたからです。
この記事は、時評にするか挽歌にするか迷って時評にすることにしましたが、少しだけ妻のことを書きます。
妻を亡くしてから、ずっとこのブログで挽歌を書き続けていますが、そのおかげで、生と死、あるいは彼岸と此岸のことをいろいろと思いめぐらすことがふえています。
そうした中で、人は、いまはいない人に支えられて生きていることを強く実感できるようになってきたのです。
「いま、ここ」にはいない人たちによって、私たちの生活は支えられている。
私が子どもの頃までは、その「いま、ここにはいない人」は、お天道様とかご先祖様とか、あるいは7代先の子孫たちとかいう言葉で表現されていました。
その言葉は、今も私の生活を支え、あるいは規制しています。
「いま、ここにいる人」がいなくても、悪いことや恥ずべきことはできないのです。
規制と支援は、コインの裏表です。

伴侶を亡くして自ら生命を絶った人もいますが、相手を心底、愛し信じていたら、たぶんそうはしないでしょう。
「いま、ここ」からはいなくなったとしても、その存在を実感できるからです。
まあ、私の場合は、そういう心境になるまでに5年近くかかりましたが。

挽歌ではなく、時評なので、話を戻しましょう。
大澤さんの「未来の他者を意識した社会」は、たとえば未来世代のために環境や資源の浪費はやめよう、世界を壊すのはやめようということを意味させているでしょう。
しかし、そのことは同時に、未来の他者の存在こそが、「いま、ここ」での私たちの生活を質してくれることによって、私たちを豊かにしてくれているのです。
私たちが、未来の他者を意識するのではなく、未来の他者が私たちを意識していると言ってもいいかもしれません。
これは、ロゴセラピストのフランクルの「私たちが人生の意味を問うのではなく、人生が私たちに意味を問うているのだ」というのと構図が同じです。

ちょっと時評と挽歌の中間的な記事になってしまったばかりでなく、話がいささか大きく広がっていきそうです。
短絡的にまとめてしまうと、未来の他者のためではなく、未来の他者のおかげで、私たちの豊かさが「いま、ここ」にあることを書きたかったのです。
そう考えると、生き方を少し変えられるような気がします。
私が、そうであるように、です。
挽歌を書き続けているおかげで、私の意識は大きく変わってきています。
未来の他者とのつながりも実感できるほどになっています。
いや、未来と言うよりも、時間を超えた他者というべきでしょうか。
やはり書いているうちに、だんだん挽歌に引き寄せられそうで寸。
挽歌編にも再録してしまいましょう。
もう少し発展させられるかもしれません。

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