■節子への挽歌2047:「小なる自己」からの脱出
節子
ようやく生活のリズムが回復してきました。
この2か月ほど、かなり世間から脱落してしまい、いささかすねていた感じがありますが、少しずつまた素直になりだしています。
一時は、かなりの人嫌いになりそうでしたが、一昨日、この挽歌に書いた西田幾多郎の言葉を思い出したおかげで、すっきりできました。
我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って、幸福となるのである。
どうやら最近の私は「小なる自己を以て自己となす」状況にあったような気がします。
節子がいたらもっと早く気づいたのでしょうが、私一人だとなかなか自分の状況を相対化できないのです。
他者に期待するからこそ、失望してしまうのですが、そもそも他者への期待は「小なる自己」の成せるところなのです。
節子がいた時には、節子によく話していた言葉なのに、すっかりと忘れてしまっていました。
不思議なもので、自分がすねていると、ますます世間の風は冷たくなります。
そして自分では気づかないうちに、内向化し、世間をますます狭くしてしまう。
そうならないように、動き出せばいいのですが、外に向かって動くためのエネルギーが出てこなかったのです。
沈む気を払い、進む気を呼び込まないといけません。
そのきっかけを与えてくれる節子はもういませんから、自分で気を反転させねばいけません。
西田幾多郎の言葉は、3日かかって、私の気を戻してくれました。
気になっていた友人に電話をしました。
取り組みだす気になれなかった仕事の関係の呼びかけを始めました。
報告すべき人への報告をメールしました。
そうしたら、みんなからすぐに返事が来ました。
前に動き出せば、追い風が吹いてくる。
みんなが気を送ってくれるのです。
節子
明日からは、きっと前に向かっていい風が吹いてきそうです。
最近、般若心経も省略形が多かったのですが、明日からはきちんと全部を唱えることにします。
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