■「みなの口にはいることがまつりごと」
最近、韓国歴史ドラマを時々見ます。
いま見ているのが百済の最後の将軍を主人公にした「ケベク」です。
昨日の録画を見ていたら、こんな言葉が出てきました。
「みなの口に(食べ物が)入ることがまつりごと」。
とても納得できます。
北朝鮮では「まつりごと」が不在なのです。
でわ日本ではどうでしょうか。
一応、みなの口に食べ物は入っているのでしょう。
だから、みんなの政治(まつりごと)への関心が低いのかもしれません。
いいかえれば、「みなの口に入ること」を目指す「まつりごと」は実現できている。
まつりごとは、次の段階に進む段階に来ているといっていいでしょう。
しかし多くの人は、まあ「口に入る生活」を維持しているのだから、これでいいと思っているようです。
消費税増税が必要だと言われればそれに従い、原発も必要だと言われればそれにも従い、円安は良いことだと言われれば喜び、どんどんと自らの生活を窮屈にしながらも、まあ「口に入る生活」ができるからいいと「小さな生活」に閉じこもっているような気がします。
あれほど危機感を募らせ、反原発だと騒いだにもかかわらず、選挙では原発推進者たちを支持し、暮らしが苦しいなどといいながら消費税増税や円安を支持しているのですから、もう、何をか言わんや、です。
口に入れられる生活を実現してくれたお上には従順なのです。
昨日、テレビでホームレスになりながらも、生活保護を申請していない人が、取材に応じて、「生活保護費はみんなの税金から支払われているのでしょ、みんなには迷惑をかけられない」と話していました。
お上の言いなりになっている人たちの、これが末路かもしれません。
見ていて、なにかとても悲しくなりました。
政治は、次の段階を目指すべき時期に来ています。
みんなが口に入れられる状況に甘んじていてはいけないのではないか。
その一方で、まだ口に入れられない生活をしている人たちが、地球上にはたくさんいます。
あるいは、このままで行くと、日本でも将来、そういう状況が生まれるかもしれません。
そうした想像力を高めていくべきではないかと思います。
それに、みんなの口に入るものが、どんどんと汚染されてきていることも忘れてはなりません。
口に入るからといって、そこに安住せずに、自らの生き方を見直していくことも大事なような気がします。
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