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2013/04/18

■節子への挽歌2054:だましあうことを喜び合える関係

節子
先日、宮部さんにも話したのですが、どうも私はみんなにだまされているのではないかと言う気がしてきています。
節子がいつも冗談で私に言っていたことですが、まんざらこれは冗談ではないのかもしれません。
まあ、だからと言って、だまされていることが悪いわけではありません。
だまされるのも、大切なことですから。
しかし、最近は節子がいないせいか、精神的な余裕がなくなってきたようで、だまされるのも大切なことだなどと開き直ってばかりもいられなくなってきました。
心に余裕がなくなったということでしょうが、時にむなしくなることもあります。
だまされることを一緒に喜べる人がいないからです。

夫婦は、もしかしたら「だましあうことを喜び合える関係」なのかもしれない、と最近、思えるようになってきました。
そして、人生において、「だまし・だまされる」ことは、結構大事なことなのではないかとも思い出しました。
所詮、この世は「だましあい」で成り立っているのかもしれません。
こういう風に考えてしまうのは、少し疲れているからかもしれません。

夫婦は「だましあうことを喜び合える関係」と言いましたが、お互いに相手をだましているだけではありません。
自らをもだまし、関係をもだましている。
しかし、それがお互いにとても心地よく、安堵できるのです。
だから、「だます」という言葉ではなく、「信頼」という言葉のほうが適切かもしれません。
「だます」と「信頼」は正反対だろうと思うかもしれませんが、この言葉はほとんど同義語のような気もします。
「だます」とは「信頼」の上に成り立ち、また「だます」とは「信頼」を勝ち取ることだからです。
ラブソングで、よく「一生だましていてほしかった」というフレーズが使われますが、まさに「だまし」と「信頼」は辞書的な意味においては正反対でも、人生においては「同義」なのかもしれません。

しかし、信頼してだましてもらえる節子や、信頼してだませる節子がいないために、どうも最近は、私の中で、「だます」ということが悪いイメージになってきているように思います。
それでは世界は狭くなるかもしれません。
ちょっと残念です。

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