■節子への挽歌2039:「節子がやったんじゃないの」
節子
とてもいい言葉を見つけました。
わが家で何か不都合なことが起こり、その責任が問題になることがあります。
たとえば、今朝、牛乳の紙パックのゴミ処理の仕方が悪い、誰がこんな捨て方をしたのかと娘が怒っていました。
まあ私しかいないのですが、私はこう答えました。
「節子がやったんじゃないの」。
この言葉は実にいい言葉です。
責任回避と目くじらをたてることはありません。
節子も家族の役に立っていると喜んでいるでしょう。
家族は、節子と一緒にいる気持ちになれます。
それにこれからは、何が起こっても、節子がすべて引き受けてくれるわけですから、平和が維持できます。
実はこれはわが家の文化でもありました。
あらかじめ「だれのせいか」を決めておけば、とても楽なのです。
そもそも「事の良し悪し」は、立場によって違ってきます。
ですから話し合ってもなかなか決着はつきません。
しかし、「良し悪し」を引き受ける人を決めておけば言い争いにはならないのです。
とまあ、そのはずでしたが、なぜか私たちの夫婦喧嘩はなくなることはありませんでした。
何か不都合が起こってその責任がわからない場合、すべて節子のせいにするというのは、わかりやくしていいルールだと思っていたのですが、どうもそうではなかったようです。
これだけ聞くといかにも私の身勝手さだと思われるかもしれません。
そうではないのです。
基本は私が悪いという前提がその前にあるのです。
どうですか。いいルールでしょう。
問題は、このルールを節子が納得していなかったことです。
困ったものです。
しかし今はもう節子の反対はありません。
ようやくこのルールのよさが行かせる時が来ました。
節子はいまも家族の役に立っています。
ありがたいことです。はい。
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