■節子への挽歌2045:「ありのままにある」生き方
節子
「ありのままにある」ということが、私の信条のひとつです。
しかし、それは簡単そうで難しい。
しかも、「ありのままにある」ことを志向した途端に、それは遠いものになってしまいます。
私が、最も「ありのままにある」ことができたのは、節子と一緒だった時でしょう。
節子と一緒に暮らしたおかげで、「ありのままにある」生き方を体験できました。
そして、それがいかに快適なものかも知りました。
ありのままにあれば、のびのびと、大らかに、楽しくなります。
そのために、何回かの「大失敗」もしましたが、それもまた前向きに考えられるようになりました。
「不幸」もまた「幸せ」のうちであることも知りました。
しかし、節子と別れてからは、同じ「ありのままにある」生き方も、大きく変質しました。
内向きになりがちで、時に沈みがちでした。
沈んでしまうと心身が動かなくなる。
そうなると、動かないでいることが「ありのままにある」ことになりかねません。
いや、最近、そう思うようになっていました。
今日、西田幾多郎の「善の研究」に書かれている文章に久しぶりに出会いました。
我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って、幸福となるのである。
前にこの言葉に出会った時、「客観的自然と一致する」とは「ありのままにある」ことだろうと考えたことを思い出しました。
いまの私の「ありのままにある」とは明らかに違います。
今の私の「ありのまま」は、いわば「小なる自己のまま」かもしれません。
だから苦痛も多く、時に沈んでしまう。
それは、決して、客観的自然と一致する「ありのままにある」ではありません。
どこかで、「ありのまま」をはきちがえてしまっているようです。
節子がいた頃のような、大きな「ありのままにある」生き方には戻れないかもしれませんが、「小なる自己を以て自己となす」ことはやめようと思います。
今日は釈迦の誕生日の花祭り。
朝、お墓参りに行ってきました。
| 固定リンク
「妻への挽歌11」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌2200:宝くじを買わないと人生を全うできない感じです(2013.09.10)
- ■節子への挽歌2199:退歩(2013.09.09)
- ■節子への挽歌2198:相思花(2013.09.08)
- ■節子への挽歌2197:彼岸花が咲き出しました(2013.09.07)
コメント