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2013/04/04

■第三者委員会ってなんでしょうか

最近気になる言葉があります。
「第三者委員会」です。
問題が起こると「第三者委員会」に調べてもらおうというのが流行のようです。
そのほうが「客観的」で、説得力があるということでしょうか。
しかし、私には完全に、責任放棄に感じます。
「第三者」でなければ見えてこないこともあるでしょうが、「当事者」でなければ見えてこないこともあります。

しかも問題は、第三者委員会の結論や指摘が、当事者によって守られるわけでもありません。
聞き流されるとまでは言いませんが、それが遵守されたり、当事者の言動を変えるとは限りません。
第三者委員会の結論や提言に強制力があるわけではありません。
私には単なる「儀式」にしか思えません。

そもそも「第三者」とはおかしな言葉です。
利害関係がない人という意味でしょうが、利害関係のない人でなければ真実が見えないと思う発想が私には理解できません。
そうした人も参加する委員会であれば、その存在の意味も理解できますが、第三者に果たして踏み込んだ思考ができるでしょうか。
ただただ「形を整えた、見える要素を前提にした論理的な思考」しか出来ないでしょう。
そこには現場とのつながりはありません。

そうした流れに一方で、「当事者主権」とか「当事者研究」という動きも強くなってきています。
当事者と第三者は、姿勢と目的が違います。
なによりも、コミットの度合いが違いますから、真剣みが違います。
私は10年以上、さまざまな市民活動にささやかに関わっていますが、その体験から、活動の中心にいる人が、何らかの意味で「当事者」である活動は信頼できます。
私の表現では「社会のため」ではなく「自分のため」に活動を始めた人は信頼できます。
当事者から教えられることはたくさんあります。

一時期、「痛みを分かち合おう」という言葉がはやったことがあります。
しかし、痛みを分かち合えるのは当事者だけです。
そもそも当事者でない人は、痛みを理解すらできません。
「痛みを分かち合おう」などという言葉は、権力者の言葉でしかないのです。
当事者は、決して「分かち合おう」などとは言いません。
黙ってただ「分かち合う」のです。

安直な第三者委員会の動きには、違和感があります。
当事者が自分の問題としてしっかりと事実を見直し、言動を省みる仕組みこそが必要です。
第三者は不可欠な存在だと思いますが、主役ではありえません。

ちなみに、いまの国会は国民の生活にとっては「第三者委員会」かもしれません。
そう考えると、奇妙に納得できることが少なくありません。

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