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2013/04/17

■節子への挽歌2053:言語行為論

節子
一昨日湯島に来た濱田さんの話から、もうひとつ、印象的だったことがあります。
それは、うつ病の人に「がんばれ」というのはよくないといわれているが、あれは間違いです、と濱田さんが言い切ったことです。
当事者が言うのですから、これは否定しようがありません。
私も共感します。
専門家や医師やカウンセラーの言葉は、一般論でしかありませんから、正しい時もあれば正しくない時もある。
にもかかわらず、専門家は「正しい」という姿勢で、上から目線でものを言います。
そもそも、人が生きることに関しての「専門家」などは、本人以外にいるはずもないのですが。

言語行為論という知の分野があります。
一言で言えば、人が話すことで何を行為しているかを考える議論です。
たとえば、「今度の日曜日は用事がある?」と誰かにいう時、別にその人に用事があるかどうかに関心があるわけではありません。
その言葉が意味することは、今度の日曜日に用事がなければ、何かを頼むとか何かに誘うとかということです。
つまり「話した言葉の内容」と「話すという行為の意味」とは、別なのです。
そうしたことを踏まえると、大切なのは、「がんばれ」という言葉ではなく、その言葉を通しての行為なのです。
つまり、ある時には「がんばれ」が効果を持ち、ある時には「がんばれ」が逆効果を持つわけです。

愛する人を失って、悲しみの奈落へと落とされている人にとって、実は「言葉」よりも「行為」が鋭く響いてきます。
「時間が癒す」とか「奥様が望んでいませんよ」などと言う言葉は、ただただ白々しいのです。
しかし、なかには同じ言葉でも、違った行為の意味が伝わってくることがあります。
いいかえれば、そういう時期には、感覚が鋭くなっているので、言葉の奥にある心を実感できるのです。
恐ろしいことですが、その人の本性までが見えてきます。
それは決して幸せなことではありません。
注意しないとどんどん性格が悪くなり、人嫌いにもなりかねません。
事実、私がそうでした。
しかし、逆に人に優しくなり、寛容にもなれます。

これも、節子との別れで学んだことです。
言葉と行為が一致する関係にあった節子がいなくなったことは、私には大きな空白ができたような気がします。
節子との会話が、とても懐かしいです。
もうあんな心身に響きあう会話はできないのでしょうか。

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