■節子への挽歌2038:悼みと痛み
時評編で「痛み」について書いたので、挽歌編では「悼み」について書くことにします。
「悼み」と「痛み」は深くつながっているからです。
痛みを伴わない悼みはありません。
旅立った人を悼むことは、痛みを引き受けることです。
しかし、同時に、痛みを解き放してくれるのもまた、悼むことの働きでしょう。
「痛み」と「悼み」は、深くつながっています。
「悼む」とは、もともと、自分の体や心が「痛む」ということ、人の死に接して自分の心が「痛み」、それを嘆き悲しむということだそうです。
『新字源』によれば、「悼」は、「心と卓(ぬけでる意)とから成り、気がぬけ落ちたような悲しみの意を表す」と説明されています。
身が切られるような悲しみは、まさに現実に痛みを引き起こします。
しかし、「悼む」ことで「悼み」を軽くなることもあります。
「痛み」は自らに向いていますが、死者を「悼む」ことで、その向きを反転させることができるからです。
痛みは、悼むことによって、外に出て行くのです。
これが、私の体験から見えてきたことです。
「痛み」は「社会的な断絶」によって引き起こされる痛みや苦悩だと、ジャーナリストの粥川準二さんが言っています。
愛する人との別れは、まさに「社会的な断絶」を起こす要因のひとつです。
節子がいなくなったことで、私はそのことを強く体験しました。
底のないほどの孤立感に襲われ、世界から現実感が消えてしまったのです。
一時期は、娘たちさえも、幻のように感じました。
感情が消え去り、思考の秩序は乱れ、自分から心が抜け出ていくような、そんな状況にしばらくは陥っていたように思います。
リアリティを感じない世界に生きているのは、とても不思議な感覚でした。
その「痛み」から立ち戻れずに、自らの生命や生活を絶つ人がいるのもよくわかります。
ここでいう「痛み」は、心が痛むといったようなものに限りません。
実際に身体が痛むこともあるのです。
しかし、悼むことによって、そこから抜け出ることもできる。
「悼む」という営みは、「痛み」において死者に出会うということだと、以前、この挽歌でも紹介した「花びらは散る 花は散らない」の著者の竹内整一さんは書いています。
西田幾多郎は、それによって生き直せました。
こう考えていくと、実は「愛」という関係は、一方の死によっては終わらないことに気づきます。
むしろ、「いたみ」を通して、愛は深まることもある。
その「愛」は、もはやそれぞれの「愛」ではなく、それぞれをつなぐ「愛」です。
「悼み」を通して、「痛み」を分かち合うことで生きつづける愛。
それは必ずしも「現世」の愛ではないのですが、人の生を支える力は十分に持っているような気がします。
悼まなくなった時に痛みは消え去り、愛も終わるのかもしれません。
愛の終わりもまた、愛の成せる奇跡のひとつではないかと、最近思うようになってきました。
そこに見えてくるのは、やはり「大きないのち」です。
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