■節子への挽歌2093:存在するものには、必ず意味がある
節子
箱根から下りる道すがら、一人の老人が傘を持って、ただ歩いていました。
とても不遜な話ですが、ふと、この人はなんで歩いているのだろうと思いました。
歩いているのが不審だったわけではありません。
誤解されそうですが、正確には「なんで生きているのだろうか」と感じたのです。
およそ「生気」が感じられないのです。
私自身に重ねて考えていたことは間違いありません。
おそらく外部から見たら、私もあんな感じで歩いていたのだろうなと思ったのです。
同時に、しかしあの人がもし死んでしまったら世界が変わり、私の人生も変わるのだろうかとも思いました。
挽歌を書いていると、人は哲学的になるものです。
大きな「いのち」を生きていると言うのが、私の最近の実感です。
私のいのちは、私のものであって、私のものではない。
この考えが、最近、奇妙に実感できるのです。
「大きないのち」の一部である私の命が消えたら、「大きないのち」が変化するのは当然であり、だとしたらその一部である、すべての人の人生もまた変わると考えていいでしょう。
「人は人生の意味を問うのではなく、自分が人生に問われていることに応えなくてはいけない」とアウシュビッツを生き抜いたフランクルは言いました。
問われているのは、「大きないのちを生きているか」ということかもしれません。
人は風土と共に生きていると喝破した「銃・病原菌・鐵」の著者の進化生物学者のジャレド・ダイアモンドは、人生というのは、岩や炭素原子と同じように、ただそこに存在するだけのことであって、「人生の意味」というものを問うことには何の意味も見出せない、と言っています。
人生は意味というものは持ち合わせていない、というわけです。
いささかムッとしますが、意味を問うなどという小賢しさとは無縁なのが人生かもしれません。
しかし、生きることには深い意味がある。
そのお年寄りの姿を追いながら、なぜか強くそう思いました。
そもそも「生きる意味」を問う主体は、個人ではないのです。
「大きないのち」なのです。
小賢しいのは、むしろジャレド・ダイアモンドかもしれません。
存在するものに、たとえば岩や炭素原子に、意味がないなどとはいえないでしょう。
存在するものには、必ず意味がある。
それにしても、あの人は、なぜ歩いていたのでしょうか。
むかし湯河原で会った鈴木さんのことを思い出しました。いやもしかしたら、あれは鈴木さんだったかもしれません。
そういえば歩き方が似ていました。
私が、その人を見たのは、バスの中からでしたが、私の視野に彼が入ってきたのにも、そしてちょうどその時、バスが信号で止まったのも、たぶん意味があるのでしょう。
世の中には、意味の読み取れないことが多すぎます。
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