■原発の発明は、その事故の発明でもあった
フランスの思想家ポール・ヴィリリオは「原発という実体の発明は、その事故の発明でもあった」と言っています。
効用と危険性は、常にコインの両面ですから、これは間違いのない事実ですが、私たちはほとんどの場合、効用に目を奪われて、その危険性は忘れがちです。
ひとたび事故が起こると、効用のほとんどが吹っ飛ぶほどの惨事になることもありますが、にもかかわらずそれでも効用に執着する人間の習性を、福島原発事故は教えてくれました。
平和の議論において、二重結果論というのがあります。
ある行為によって生み出される悪い結果が、同時に有無だされる善い結果の意図せざる副産物ならば、そうした悪い結果を生み出す行為も免責されうるという論理です。
シリアやヨルダンにおいて展開されている市民の殺害は、そうした論理によって、免責されるというのです。
いわゆるコラテラルダメッジは、微妙ですが、この発想につながっているのかもしれません。
つまり、「意図せざる副産物」をどうとらえるかで、議論は大きく変わるのです。
この言葉が、微妙なのです。
話がそれてしまいましたが、問題は原発に象徴される科学技術の発展をどう捉えるかです。
効用を基本に考えるか、それがもたらすかもしれない危険性を基本に考えるか。
いまそれが問われています。
原発の効用がいかに大きいとも、それが伴う事故の大きさをしっかりと考えなければいけません。
目先の仕事に固執して、自らの生命をおろそかにすることは、避けたいと思いますが、多くの人はそれができずにいます。
その分野で、科学技術者のできることはたくさんありますが、そういう意識で動いている人はあまりいないように思います。
起点を変えなければいけません。
原発の効用の発見ではなく、原発という凶器を発見したと考えれば、言動は変わるはずです。
つまり事故は副次的なものではなく、そこにこそ本質があるのです。
シリアやヨルダンで行われていることも同じです。
この発想を広げていくと、世界はかなり様相を変えて見えてきます。
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