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2013/05/30

■節子への挽歌2094:誕生日嫌い

節子
また誕生日が来ました。
フェイスブックでは、何やらたくさんの人たちが「お誕生日おめでとう」と書き込んでくれています。
フェイスブックには、誕生日が出てくるので、誕生日おめでとうの書き込みが広がっているのです。
私も、ついつい毎日のように、誕生日おめでとうの書き込みを書いてしまいます。

しかし、です。
いつも思うのですが、なんで誕生日はおめでたいのでしょうか。
昔から私自身、それが不思議でした。
こういう「常識的に当然なこと」を「なぜかな」と思うのが、私の性癖なのですが、節子はそうした疑問を何度も聞かされています。
よくまあ付き合ってくれたものです。
節子が、時には呆れながら、それでも付き合ってくれたおかげで、私は今ない、そうした疑問を問い続ける生き方ができています。
娘たちは、最近相手にしてくれませんが。

私も子どもの頃は、お誕生会などいって友だちに祝ってもらったりしましたし、娘たちの誕生日はそれなりに祝いました。
それは、1年間、無事に育ってくれてよかったという、喜びとお祝いの気持ちがあったからです。
しかし、大人になると、誕生日? だからどうした、という気分なのです。
私だけのことでしょうか。

節子は、まったく違いました。
次の誕生日を迎えられるだろうか、というのが、切実な思いだったからです。
それを一緒に体験しましたから、誕生日を迎える喜びもわからないことはありません。
しかし、今の私には誕生日を祝う気持ちは皆無です。
節子の思いが、62回目を境に断ち切られてしまったからです。
そのせいで、誕生日嫌いになったのかもしれません。
いや、間違いなくそうでしょう。
書いていて、やっとわかりました。
「誕生日」が嫌いな理由が。

フェイスブックでは、誕生日のケーキや晩餐の写真がよく書き込まれます。
正直、実にうらやましい。
ケーキやご馳走がうらやましいのではなく、祝いあう伴侶がいることがうらやましい。
娘たちは祝ってくれますが、やはり伴侶がいなければ、ただただ永らえているだけの悲しさから解き放たれないのです。
だから祝う気にはなれないのです。

お誕生日おめでとう、と言ってきてくれた人たちには、感謝の返事を書きますが、何か少し白々しさも感じます。
かなりひねくれているわけです。

節子がいた頃、なぜもっときちんと誕生日を祝い合わなかったのだろうかとも思います。
私は、そういうことがなかなかできない人間だったのです。
「なぜ誕生日をいわなければいけないの」と節子に言っていたような気もします。
いまとなっては、悔やまれます。
常識には素直に従っていたほうがいいのかもしれません。

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