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2013/05/07

■節子への挽歌2073:「話す相手」がいなければ「話す自分」もいなくなる

節子
時々、この挽歌への読者が増えることがあります。
この挽歌は、誰かに読んでもらうというよりも、自らが語るというためのものですから、読者のことをほとんど意識していないので、普段は読者はそういません。
ところが、一昨日、急に読者が増えました。
時評編と挽歌編があるのですが、読者が増えるのは多くの場合、時評編です。
先日、「グラディオ作戦」が話題になったようで(私は気づきませんでしたが〉、一日2000件を超えるアクセスが続きました。
今回はそれほどではないのですが、調べてきたら、どうも野田風雪さんのおかげです。
挽歌1527:「話す相手がいないこと」の意味へのアクセスが増えていました。
半年ほど前の挽歌です。
読み直してみました。
挽歌を読み直すことはあまりないのですが、半年前の自分に会ったような気がして、少し新鮮でした。

伴侶を見送った後、「話す相手」がいなくなることの辛さについて、野田風雪さんが語った話から、「話す相手がいない」とはどういうことかという私の思いを書いたものです。
読み直して気づいたのは、いないのは「話す相手」ではなく「話す自分」かもしれないということです。
相手がいなければ、自分もいないというわけです。
伴侶を亡くすと、自分が見えなくなる。
自分がどこかに行ってしまったような感じになるのです。
おかしな言い方ですが、節子がいた時の私といなくなってからの私が、別人になってしまうような気分で、現状の私を見ている、以前の私が時々、出てくるのです。
まさに「アイデンティティ・クライシス」。
私の場合、その2つの私が一緒になるまで5年ほどかかった気がします。
完全に一つになったわけではなく、いまも2つの私が存在してはしますが、最近は矛盾なくつながっている気がします。
一時は、お互いがお互いに「冷やか」だったような気もします。

なんだか禅問答のように聞えるかもしれませんが、なにかとても重要なことが含意されているようにも思えます。
たとえば、「話す」という行為の本質にも関わっているような気もしますし、昨今の人のつながりが弱まっている状況にもつながっているような気もします。
考え出すと際限がなくなりそうです。

いうまでもなく、「話す」という行為の意味は、「話し合う」ということでしょう。
独り言のように、声を発するということではないでしょう。
相手の反応があればこその「話す」です。
風雪さんが「辛い」と言うのは、相手の反応がないと話せないということでしょうが、その「反応」は、伴侶の場合は特別だということです。
その気持ちは、私も体験しているので、よくわかります。
しかし、辛いのは、「話す相手」ではなく、「話す自分」がいないからかもしれません。
私は、最近ようやく、その「自分」に出会いました。
節子を見送ってからしばらく、自分が混乱していて、自分にさえその居場所が分からなかったのですが、やっとまた自分に戻れたのです。
ますます禅問答になりそうです。

半年前の挽歌を読んだだけで、自分の変化が少し感じます。
最初の頃の挽歌を読むと、まったく別の私に出会うかもしれません。
読もうかどうか、迷います。
さてさて、どうするか。

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